『3番、センター青木龍』
 ウグイス嬢を勝手にやり始めた加奈の声がグラウンドに木霊する。左バッターボックスに入り、龍は構えに入ると全く動かない。その様子はまるで……。
「居合い。いや、あいつの技で言うと、燕殺か」
 ネクストバッターズサークルでじっとバットに寄りかかり戦況を見つめる黒沢は、微動だにしない龍の姿にいつもの戦闘スタイルを重ね合わせる。
「さあ、打て、龍。流れを取り戻す意味でもここで一点は欲しい」
 一球目を放とうとする川野辺のゆったりとした投球フォームが黒沢の目に入る。リリースされたボールは糸を引いたように綺麗な軌道を描き、キャッチャーのミットに収まる。
「ストライク!」
 審判の腕が高々と上がり、緊迫した雰囲気が一瞬だけ途切れる。ふうっと息を吐き、一度打席を離れる龍。黒沢と視線を交わし、少し笑みを浮かべて打席へと戻っていく。
「ここで1点、いや、出来れば2点は欲しいな」
「流れ的に点が取れないと、ずるずると失点しそうだからな」
 寺川と藪田は互いに顔を合わせると、ベンチの前でキャッチボールを繰り返す孝をじっと眺めて、戦況を分析する。孝の投球は不安定なものだ。いつ何時点が入ってもおかしくない状況がこのまま続けば、大量リードを許してしまうことになる。マルタカ相手に4点以上リードを許すと非常に厳しくなるだろう。元々、素人集団のチームだ。勢いさえなければ名門を下せるはずもないのだから。
 試合の鍵を握るであろう孝を心配そうに見つめる智子。ただ黙々とキャッチボールをこなす孝を見つめるだけで、何も出来ない自分を腹立たしく思うしかなかった。
 まるで竹刀で空気を鋭く切ったような音と共に、強烈な打球音が響き、打球はあっという間に左中間を抜けてゆく。2塁ランナーの創が悠々とホームインすると同時に龍も隙を突くように、二塁ベースに到達する。
「秘剣・燕返し……」
 二塁ベース上でぱんぱんと手を払った龍は、右打席に入る黒沢を一瞥しながら、小さく呟いた。





第8話 熱闘、野球対決(後半)





 鈍い打球音と共に打球はセカンドの正面を突くボテボテのゴロ。鍛えられた内野陣がそれを逃すはずもなく、素早く捕球し、セカンド・和賀がショート・岡部に転送する。ジョンが一塁ベースに到達する前に岡部からボールがファーストに送られ、ダブルプレーが成立した。
 龍のタイムリーで一点返した後、黒沢はフォアボールで出塁するもそれ以上の得点は得ることが出来なかった。
「んー、惜しかったデス」
「ありゃりゃ〜。ま〜、仕方ないって」
 とぼとぼと歩くジョンの肩をぽんぽん叩き、創は笑みを浮かべ、セカンドの守備位置に付く。
 マウンドに上がった孝はまだ不安げな様子を見せている。もどかしそうに智子は孝をじっと見守っている。
「さあ、下位打線だ。ここは確実に抑えておきたいな」
 寺川が呟いたと同時に、コツンとバットをボールが当たる音が聞こえる。打球は綺麗な放物線を描き、白神の頭上を越えていく。センター前ヒットだ。
「あ〜あ、打たれちゃったよ」
 龍からの中継ボールを受け取り、創はぽつりと呟く。ちらっと孝に一瞥をくれ、創はベンチで見守る智子をじっと眺める。脳裏によぎるのは少し前に珍しく智子が持ってきた依頼だった。
 元気のない孝をどうにかしてほしい、昼間の喫茶店で智子の切実な願いを受けて、創は黙って頷くしかなかった。
 だからこそ孝をこの試合に創は呼んだ。去年の夏、甲子園出場チームに食らった逆転サヨナラホームランがトラウマになっている孝を。克服するには野球しか方法はない。
 続く8番の岡部に孝はストレートのフォアボールを与えてしまう。腕を振ろうとはしているが、どうしてもボールが外れてしまっている。
 9番の川野辺はきっちりバントで送る仕草を見せている。二球、ボールが続き、慌てて創はタイムをかけた。
「ボールが入ってないね」
 孝に声をかけ、にこりと満面の笑みを浮かべると創は口だけ開いて、大丈夫と無言で呟いた。
「リラックスですヨ。もっと楽に投げればいいデス」
「そうだよ。私も頑張るから」
 集まった内野陣、それにセンターから龍が来て、大きく頷く。
「ホームランを打たれたことは忘れろとは言わない。狙ったところに投げさえすればホームランは打たさない」
 いつの間に孝の背後に立っていた黒沢も汗を拭い、小さく保証すると言う。
「それに……せっかくだし、楽しもうよ。だって面白いじゃん。強いチームとやれるしさ〜」
 ポンポンと肩を叩き、左打席でバットを入念にチェックする川野辺を一瞥する。
「まあ、そういうことだ。バッター集中、頼むぞ」
 ぶっきらぼうに呟いた黒沢の言葉に頷いた孝の表情は心なしか先程と違って見えた。
 3球目は開き直ったようなど真ん中のストレート。フォームに躍動感が戻り、球の切れも出てきた。孝の表情も明らかに先程と違っている。
「よしよし、ここを乗り切ればいけるね〜」
 続く4球目をバントされるが、三塁線を転がり、ファウルとなる。平行カウントで川野辺はスリーバントに出るもフォークボールを打ち上げてしまい、バントは失敗となりアウト。
 1アウトランナー1、2塁で打順は1番に戻る。先程甘い球を綺麗にセンター前に運んだ鴨田だ。黒沢はここで孝にあるサインを出す。
 ――ここでシュートかぁ。やるねぇ、黒沢。
 投手が乗ってきたところで敢えて今まで使っていなかった新球・シュートを試そうという。ピンチには変わりないが、鴨田は長打がない打者だ。シングルヒットなら足の遅い2塁ランナーは帰って来られない。
 少し緊張した面持ちで孝は頷くと、セットポジションからボールを投げる。
「貰った」
 外角気味に甘めに入ったシュートはほとんど変化せず、センター前へ打球を飛ばされる。少し前気味に守っていた龍が素早い中継プレーを見せ、2塁ランナーは3塁でストップする。
「タイム」
 後に佇む主審にタイムを申し出て、マウンド上の孝の元へ向かう。
「さっきの打球は仕方ない。ヒットを打たれて当然の打席だから気にするな。次の打者は左が続く。シュートはひとまず置いておくぞ」
 思いっきり投げてこいとだけ黒沢は言うと、孝の右肩をポンポンと叩き、ふっと少し笑みを浮かべた。
 2番・中沢をバッテリーは巧みに追い詰めると、左打者の内角低め、膝元のスライダーで三振を奪う。
 続いて先程タイムリーを打たれている谷中に対しては、弱点であるインハイを中心に攻め、何とか2ストライクを奪い、追い詰める。
 ここでバッテリーが選択したのは敢えてのシュート。孝の球種にシュートはないと思い込んでいるバッターに対して一番有効な球だ。
 孝は黒沢のサインに黙って頷くと敢えてノーワインドアップから投げる。ボールは少し甘めに入るが厳しいコースを通過……、せずバットに上手くミートされる。
 打球音と共にセカンドへの強烈なライナー。際どいがヒットコースだ。しかし創はそれをあたかも予知したかの如く、ボールをグラブに収めてしまう。
「3アウト。チェンジ!」
 審判のコールと共にベンチに向かって走り出す創。黒沢と共にベンチに戻る孝の横に到着すると、ナイスピッチングと笑みを浮かべ呟く。
「ピンチだったけど、良く粘ったね」
 ベンチに戻ると智子が笑みを浮かべて孝を出迎える。孝も笑みを浮かべたまま、小さく頷き、智子の顔を見つめる。
「さて、守りは堅くなってきたようだし、反撃だな」
 黒沢の言葉に、創は笑みを浮かべて、ベンチに置いてあったスポーツドリンクを手に取り、口元へと持って行くのだった。





 2回の裏、スライダー、チェンジアップ、フォークと言った変化球を巧みに使い出した川野辺の前に、先頭打者の大野がヒットで出塁するものの、下位打線が沈黙。無得点で終わる。
 3回は復活した孝が4番の清田をシュートを巧みに用いた投球で内野ゴロに仕留めると、後続の吉永、和賀をそれぞれライトフライ、サードライナーに討ち取り、ぴたりと追撃を阻む。ストレートを中心とした球のキレ、制球共に、前のイニングとは別人と思う程安定している。
 一方、打線は創から始まる好打順だが、元プロの変化球を上手く使った投球に、創と龍は打たされ、白神は三振してしまう。
 4回表、孝は先頭打者をショートゴロであっさり1アウトを取る。続く8番の岡部をレフトフライに打ち取るが、レフトがボールを落球し、2塁を陥れられた。
「気にするな。野球にエラーは付きものだ」
 マウンドに素早く黒沢が向かい、確認するように孝と顔をつきあわせる。孝は落ち着いた様子で、ネクストバッターズサークルでバットを振る青年を見つめる。川野辺とは違う。早いイニングではあるが、勝負を仕掛けてきたようだ。
『バッター、川野辺に代わりまして加賀美』
 ゆっくりと右打席に向かう青年を見て、龍は少し違和感というのだろうか。どこかで見たことがあるという感覚にとらわれた。
 黒沢はゆっくりと右打席に入る青年をじっと見つめる。少しこけた頬に鋭い目つき。どこか地獄を通ってきた目だ。
 サインを慎重に決めると、孝はロージンを入念に手に付けるとボールを握り、バットを立てて、ボールを待つ青年――加賀美をじっと一瞥する。
 初球はインコース膝元から曲がるスライダー。加賀美はこれを見送って、ストライク。2球目はインハイへのシュート。加賀美はこれに手を出すが、ファウル。ボールは明後日の方向へ力なく飛んでいくだけだ。
 ひとまず厳しいコースを突いて2ストライクに追い込んだ。問題はここからどう攻めるかだ。元プロに代えて送ってきた打者だ。注意すべきなのは間違いない。
「次はど真ん中にストレートでも投げるか……」
 わざと加賀美に聞こえるように囁き、混乱を誘うが、加賀美の顔色は一切変わることなく、ただ孝を見据えたままだ。
 黒沢はマウンドにもう一度向かい、孝に決め球の組み立てを決める。少し驚いたような表情を孝は浮かべるも、黙って頷き、投球動作に入る。
 細心の注意を払って孝がリリースした球は……ただの棒球。俗に言うスローボールだった。ふわりと浮かんだ速度のないボールは外角のストライクゾーン低めぎりぎりいっぱいを通過していく。
「ストライク。バッターアウト!」
 審判の右腕が勢いよく振り上げられる。3球勝負で決めに行くとは思わなかったのか、加賀美のバットはぴくりとも動かなかった。
 続く1番鴨田をセカンド・創のファインプレーでセカンドゴロに仕留める。
「ナイスピーですヨ」
「うんうん」
「この調子でね〜」
 マウンドからベンチに戻る孝を取り囲むように、ジョン、白神、創が次々と声をかけていく。応じる孝の顔に笑みが戻り、そろそろ反撃ムードが立ちこめてくる。
「さてと、あいつか……」
 マウンドに登っていく加賀美をちらりと一瞥し、バットを手に取る。投球練習を開始する加賀美のボールがキャッチャーのミットに突き刺さり、痛々しいまでの派手な音が響いている。
 黒沢は片手でバットを持って右打席に入る。丁寧に足場をならし、マウンド上でボールに目をやる加賀美は飄々とした表情のままだ。
 審判のプレイのコールがかかり、4回裏が始まる。ゆったりと加賀美の足が上がり、ノーワインドから鋭く腕が振り下ろされる。
「!」
 振り下ろされた腕から放たれたボールは黒沢の近くでまるで浮いたかのように感じさえする。そして何より……。
「速い……」
 直球だけで140km後半は出ているだろうか。だがそれ以上に球の伸びが凄まじい。
 加賀美は涼しげな顔のまま、ストレートを次々投げ込み、黒沢、ジョン、大野を三者連続三振に切って取る。
「うわぁ。左の技巧派の後に、右の本格派。めんどくさいね〜」
 そう言って創はマウンドを降りる加賀美の後ろ姿を小さく一瞥した。
「流石に元甲子園優勝投手なだけあるな」
「え、それどういうこと?」
 額に皺を寄せ、厳しい表情で左手にグラブをはめる龍。その横で同じくグラブを左手に押し込む白神は少し首をかしげている。
「加賀美貴浩。二年の夏、甲子園全国制覇。マックス154kmの速球に高速スライダー、フォークを武器にする本格派右腕だ」
「とはいえ、秋にケガをしてそれ以来登板はなし。結局、どこかに消えた選手だった。だがしかしこれほどの球を投げているとはな……」
 寺川の渋い顔をちらりと横目で見て、龍は白神に補足の説明を簡単に述べる。ベンチに戻り、グラブを外す加賀美を厳しい表情で龍は見つめる。まさか甲子園の怪物と遭遇するとは思ってみなかったのだろう。
 一足先にマウンドに向かっていく孝の明らかに自信を取り戻した仕草に安堵を覚えつつ、龍は白神を伴って、グラウンドへと勢いよく飛び出していくのだった。





 5回の表、孝は谷中にレフト前にヒットを打たれたものの、シュートを見せ球に清田をセンターフライ、5番の吉永をショートゴロで仕留め、無難に切り抜ける。力こそあまりないが、制球、球のキレ共に上々でバッテリーの思惑に綺麗に嵌ってくれている形だ。
 一方、加賀美は下位打線相手にストレートのみで完璧なピッチング。バットにかすらせもせず、商店街の反撃の芽を摘み取っていく。
 6回、疲れの見え始め、球威が少し衰えはじめた孝だが、何とか下位打線をきっちり三人でシャットアウトし、追加点は許さない。ここで孝はマウンドを降りることに。結果的に6回3失点。コールドゲームにならず試合を作れたのは孝のお陰と言えよう。
 満足げな孝の横顔を一瞥して、創は少し安堵の表情を浮かべると共に、凄まじいストレートを連発する加賀美に視線を移す。このままでは確実に負けてしまう。創はバットをちょこっと叩きながら、左打席に入る。
 マウンドの加賀美の表情は相変わらず変わらない。飄々としていておもしろみもない。
「さ〜てと、ちょっくらやってあげようかな〜」
 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたままの創は、加賀美の放つ速球を豪快に空振りする。さらにスイングの反動でどてっと転け、痛てててと情けない声を上げている。
「創でもダメなのか……」
「まあ、そう簡単に打てないだろ……」
 次のイニングからマウンドに上がる赤羽とキャッチボールをする黒沢は小さくため息をつき、あははと苦笑いを浮かべる創から目を離す。この回も得点は期待できないか、そんなことを思案しながら黒沢はボールを赤羽に返すのだった。
 二球目も空振りの創は見かけ上追い詰められていた。だが、そこから加賀美のストレートを何とかバットに当てていく創は意外や意外、20球近く粘っていた。カウントは2ストライク2ボール。徐々にではあるがタイミングも合いだしてきて、打球も良くなってきていた。
 加賀美の表情は表だっては変わらないが、流石に焦っているのだろう。球威が増してきていると同時に球が若干浮き始めていた。力が入っている証拠だ。
「さあ、次行こうよ」
 加賀美が寸分違わぬフォームから繰り出すボールはさきほどまでのストレートとは違いノビがない。だが、打者の手元でカクンと急に曲がり、ずばっとストライクゾーンに入っていく。創は手が出なかった。威力の弱まったストレート程の球速の変化球。
「高速スライダーか」
 ベンチの最先端で戦況を見つめていた龍はぽつりと呟き、ベンチからゆっくりと飛び出し、ネクストバッターズサークルから打席に向かおうとする白神に声をかける。
「どうしたの?」
「視力を使え、理恵。キーポイントはボールの回転だ」
 龍のアドバイスを受けて、白神は真剣な表情を浮かべて頷く。ぎゅっとバットのグリップを握って、右打席に向かう。
 白神は先程龍に言われたことを思いだし、一度目を閉じ、意識を集中させていく。そんな白神の仕草を気にする素振りも見せず、加賀美は淡々とストレートを投げ込んでいく。
「打てる!」
 三球目、ここまで二球続けて投げられたストレートより若干球速が遅くなったところできっちりバットを横に傾け、きっちりと地面にボールを叩き付ける。
 バウンドと同時に白神が猛烈なスピードで駆け出す。よろず屋一の素早さを誇る白神は、サードの鴨田がボールを投げようとする間に既に一塁ベース上を駆け抜けていた。
「よし、上手くセーフティも決まったな」
 龍は漆黒のバットを担ぎ、左バッターボックスに入る。入念に足場を固め、射貫くような鋭い視線で加賀美をじっと見据える。
「龍、お前がここで一点取りに行け。白神とは違う、剣術使いならではのやり方でな」
 黒沢は小さな声で呟く。白神は、感覚を鋭くすることでボールの体感速度を遅くし、視力を強化することでボールの回転で球種を見破った。もちろんこんな荒技はそうそう使えるものではないし、他のメンバーにはマネできないものだった。龍には、天性の剣術の才能がある。特に抜刀スピードはトップクラス。これをバットに置き換えると、スイングスピードが群を抜いて速いことになる。
 と同時に加賀美の速球を捉える強烈な打球音が辺りに響き渡る。鋭く振り抜かれたバットに弾かれたボールは、ライトの頭上を越えてぽとりとフェアゾーンに落ちる。ファーストランナーの白神はライトが打球の処理をする間に三塁ベースに到達、そしてホームを目指して、ラストスパートをかける。
 中継のボールが返ってくる頃には既に白神はホームベースを踏み、生還していた。1点差に迫る龍のタイムリーツーベースだ。
「ナイスランだ。白神」
 ベンチに戻ってくる白神とハイタッチを交わして、黒沢は打席に続く。だが、ここでバッテリーはストレートを見せ球に緩いカーブで黒沢を三振に切って取る。
「ジョン〜、ちょっと来て〜」
 バッターボックスに入ろうとするジョンを呼び止め、創はこっちへと手招きする。ちょうどネクストバッターズサークルの辺りで一言二言、言葉を交わすと、創は一塁コーチャーズボックスに入り、ニコニコと笑みを浮かべながら、加賀美をじっと観察する。
 初球、モーションと同時に創がジョンに向けて、グーの拳を突き出した。加賀美からリリースされたボールは先程までの完璧な速球ではなく、勢いも何もないただの遅いボール。ふわりと浮いて沈むところをジョンは、アッパー気味にボールをすくい上げる。
 外国人特有のパワーが伝わったボールは風にも乗り、ぐんぐんと外野を越えて、バックスクリーンに突き刺さる。
「確信犯。だな」
 創のしめたという表情を三塁ベース上からちらっと見て、龍はふうっと息を吐く。
 創の粘りによって、若干球威が落ちた加賀美の速球を龍は打つことが出来たが、ジョンの場合は別だ。速球を前の打席で見せられているため、高速スライダーやカーブといった変化球を決め球に使えるのだ。クセを見抜くのは創の得意中の得意技。恐らくカーブを投げるときの僅かなクセを見つけたのだろう。
 押され気味とは言え、見事に逆転に成功したのだ。加賀美の直球がいかに脅威であっても、リードしていればそこまで恐れることはない。
 続く大野は四球で出塁するが、続く7番が三振で6回の裏が終わる。
「よっしゃあ! 俺の出番だー!」
 やたらとでかい声を出して、吠える赤羽は待ちきれないようにマウンドに向かう。7回の表、ピッチャーが孝から赤羽にスイッチされる。
 先頭打者は9番の加賀美。先程までの加賀美の直球に刺激されたのか、赤羽の腕には力がこもる。力めば力む程、コントロールは悪くなる。元々ちっとも良くないコントロールが更に悪くなるに従って、ボールが明後日の方向に飛んでいく。
 その結果は当然……。
「ボール。フォアボール」
 先頭打者にフォアボール。一番やってはいけないことをやってしまう。しかしそんなことで動じる赤羽ではない。続く打者をセンターフライに打ち取り――正しく言えば運良く打ち上げてくれ、1アウトを取る。2番打者は打ち頃の低めの球を打たせ、セカンドゴロ併殺に打ち取り、何とか無難に抑える。この時点で黒沢の心労はかなりのものだった。ちょっとした武器こそあるが、打たれるのは気持ちの良いものではない。
 ふうっとベンチで息を吐きながら、やったぜと笑う赤羽を呆れた様に黒沢は見つめるのだった。





 7回の裏、商店街の下位打線は加賀美の前に三者連続三振。手も足も出ない。8回表には赤羽がいきなりフォアボールを出すと、次の4番清田には失投を綺麗にレフトスタンドまで運ばれてしまい、逆転を許してしまう。その後、フォアボール2つにエラーで満塁にされて、打者は加賀美を迎える。
 ――流石に赤羽の球質を見定めてきたか……。
 ボールに力こそある赤羽だが、球速自体は孝に劣る上にコントロールは格段に悪い。良いところがない投手が大炎上しなかったのには理由がある。手元で動く独特の球質。俗に言うムービングファーストボールというやつだ。
 これがあるから打者は捉えたと思っても、バットの芯から外れるから打球は飛ばなくなる。清田に打たれたのは失投によるただの棒球だから打たれて当然なのだが。
 抑えるためには新たな手を打たなければならない。幸い、加賀美は中々打つ気配を見せず、2ストライクまで追い詰めることが出来た。
 ここで黒沢はマウンドに向かい、赤羽に声をかける。満塁のピンチにも赤羽当人はどこ吹く風だ。良い意味で言えば落ち着いていると言えるが、悪く言えば無責任というかただの馬鹿なだけか……。黒沢はあっけらかんとしている赤羽の姿に頭が痛くなる気がした。
「例の球を投げる。既に手は打っているから後は投げるだけだ」
「了解だぜ」
 本当に大丈夫なのか、心配になるが、黒沢は半ば諦めたようにマウンドを離れ、キャッチャーのポジションに戻っていく。
 マウンド上の赤羽はサインに頷くと先程までより大きく咆吼しながら、ボールを放つ。赤羽が放ったのは失投にも見える程遅いボール。加賀美がバットを振りに行く。バットに当たる直前でボールが少しポップしたと思うと、ふわりと放物線を描き沈んでいく。加賀美のバットは空を切り、ボールは黒沢のミットに収まる。
 アウトの宣告。加賀美は表情をほとんど変えずにベンチにおとなしく引き上げていく。この後、赤羽は1番の鴨田をサードフライに討ち取り、何とか満塁のピンチを切り抜ける。
「この回、点が入らないと厳しいな」
「ああ」
 龍は黒沢の言葉に解っていると小さく頷いて、ネクストバッターズサークルへ向かっていく。既に打席に立ち、セーフティと見せかけ、プッシュバントを成功させた白神が一塁ランナーとして出塁した。
「あのバカのこともある。ここで決めさせて貰うぞ」
 バットを構えた龍と加賀美の視線が交錯する。初球を投げると同時に白神がスタートを切る。龍は敢えて空振りし、白神の盗塁をアシストする。
 ランナーが2塁に進んで、カウント1ストライク。二球目を加賀美が放つ。渾身のストレートが、インコースにずばっと決まり、龍は手が出ない。
「得点圏にランナー。龍、無理はするなよ。繋げ」
 3球目、さらに厳しめのコースに先程よりも速いストレートが放たれ、これを龍は振り抜く。バットに当たったボールは1塁線上を、鋭く転がっていくが、ファースト清田がボールに飛びつき、カバーに入った加賀美にトスして、龍はアウト。その間に白神は三塁に到達する。
『4番キャッチャー・黒沢』
 黒沢が右打席に入る。最低でも3塁ランナーをホームに迎える為にここは是が非でも打っておきたいところだ。
 加賀美は表面だっては佇まいは変わっていないが、先程の龍への投球を見る限り全力投球であることは明白だ。
 黒沢は投球フォームに入った加賀美を受けて、ぐっとバットを握る手に力を込めた。加賀美の右腕から勢いよく飛び出したボールを黒沢も渾身の力でバットに当てる。鈍い音と共にふらふらっと上がった打球はセンター方向に風に揺られて、落ち……なかった。
「走るな!」
 センターの谷中が浅めのフライを取ると同時にスタートを切ろうとする白神を黒沢は制止する。一拍おいて、センターからホームに一直線の送球が送られる。もしスタートを切っていれば確実にアウトだった。
 結局、黒沢はセンターフライで2アウトランナー3塁と状況は変わった。打席には先程、ホームランのジョンが入る。ここでバッテリーはジョンを敬遠して、6番の大野で勝負することにしたようだ。
「大野さん、頼みます」
 龍の言葉に無言で片手を挙げて応える大野。ここまでヒットも放っている大野が右打席に。今まで助っ人しか得点を挙げることが出来ていない。元4番としてここは意地でも点を入れたいところだ。
 ぐっと足場を固め、大野はセットポジションからボールを放とうとする加賀美をじっと強い視線を送る。ここに来て、球威が急に落ち始めたのか、全く打てないという感じではない。だが、球速はあるし、伸びも未だにかなりのものを誇っている。
 豪快に1球目は空振り。少しタイミングがずれているようだ。
 2球目は外に外れるボール球。3球目はタイミングを外すカーブ。これが決まって、2ストライクと追い込まれる。
 だが大野は動じない。じっとただ加賀美を見据えるだけだ。4球目、わずかにコースが甘くなったのを見逃さず、的確にボールを捉える。打球はライト方向にぽとりと落ちるタイムリーヒット。大野は片手を突き上げ、ファーストベースを駆け抜ける。
 がくりと肩を落とすのは加賀美だ。限界、そんな雰囲気と共に投手の交代が告げられ、試合は収束を迎えていく。





 龍が放った鋭い当たりをセンター谷中がジャンプして、掴む。9回表裏の攻防は両チーム共に中軸に回ったものの得点を挙げることが出来ず、結局5対5という引き分けに終わった。
 緊迫した試合展開にギャラリーからは両チームに拍手が送られる。だが、両チームの表情は対照的だった。厳しい顔のマルタカに笑顔で充実感に満ちた商店街チーム。結果こそ引き分けだったが、明らかに格下が強者に食らいついた形で勝利に等しい結果だった。
「お疲れ様。良くやってくれた」
 大村がナインを集めて、ねぎらいの言葉をかける。泥だらけのユニフォームが激闘の後を残している。大村の差し出した右手をベンチ入りしたメンバーは次々にがっしり掴んで、握手を交わしていく。
「これで少しは戻ってくるといいけどね〜」
「その心配はしなくても良いみたいだけどな」
 黒沢が一瞥する先では、少し遠くで集まった商店街の元メンバーがこちらの様子を窺っている。どうやら大村の依頼は成功したようだ。
「まあ、これで何とか依頼達成、だな」
 龍はふうっと息を吐くと、隣に佇む白神とハイタッチを交わし、随分と降りてきた太陽の光をまぶしそうに目を細めていた。

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