初々しさを残していた木々の緑も深みを増し、季節はどんどんと春から夏へと移りつつある。吹き抜ける風も暖かさを伴い、少し汗ばむ陽気も増えてきている。もうそろそろ衣替え、そんな時期に差し掛かっているようだ。
 うららかな陽気が窓越しに伝わってくる。ベランダに面した縁側にはローが穏やかに目を閉じてひなたぼっこをしている。くすりと小さく微笑みながら白神は澄んだ青空を見上げる。
 今日も良い天気になりそうだ。せっかくの休みなのだ、少しはゆっくりしようかと考えて、小さな欠伸を洩らす。どうやら少し疲れているらしい。最近、依頼が多かったからかも知れない。
 どこからか小気味のいい音が聞こえる。リズム良く一定して何かが革に当たるような音だ。耳を澄ませると、しゅっと空気を切り裂く音も心地の良いメロディーのように聞こえてくるから不思議だ。
 誰かが近くの道でキャッチボールでもしているのだろう。リズミカルにグローブをボールが叩く音に、どこか睡魔を伴った音色が重なった。
 ふうっと小さく息を吐くと、白神は隣で丸まっているローを一瞥して、壁に体を預けて目をゆっくり閉じる。
 今日はゆっくり出来そうだ。少し安堵の表情を浮かべながら、白神は迫り来る意識の狭間に意識を徐々に沈めていった。





第7話 熱闘、野球対決(前編)





 空を茜色に染めていく斜陽のまぶしさに白神は目を覚ました。どうやらかなり長い間眠っていたらしい。綺麗な空火照りが一日の終わりを告げている。
「ちょっと寝入っちゃったか……」
 目に溜まった涙をそっと拭って、ゆっくりと立ち上がる。いつの間にか起きていたローがのっそりと後を付いてくる。
 居住空間である3階から店としての1階へ階段を下りていく。普段は騒がしいこの店も何故か今日に限ってはやたらと静かだった。
 店の奥から顔を覗かせても誰もいない。龍がいないということは依頼があったのだろうか、辺りを窺いながら、いつも創が寝転んでいるソファに近づく。
「あ、理恵さん。お疲れ様です」
「加奈ちゃん、どうしたの、その格好?」
 中学の体育で使っているジャージに身を包み、いつものように明るい笑みを浮かべる加奈。その格好を訝しげに白神は見つめる。
「ああ、これですか。ちょっとグラウンドに行ったので、着替えたんですよ」
「グラウンド?」
「あ、理恵さんはいなかったから知らないですけど、お兄ちゃん、大村さんの依頼を受けてグラウンドに行ってるんです」
 加奈の言葉に白神はますます訳がわからなくなった。商店街の会長である大村直久の依頼でグラウンドに龍が行くという意味がよくわからない。怪訝な顔をしていると加奈がくすくすと小さな笑みを浮かべて、野球ですよとそっと口にする。
「野球……。あ、そういうことね」
「そうです。大村さんは商店街の野球チームの監督もしていますから」
 確かに商店街の野球チーム・東商店街ライジングサンズの監督は大村直久だ。だが、龍を含めた全員がチームに入っていないし、何故、大村に呼ばれたのかがわからない。
「お兄ちゃん達、助っ人として試合に出るらしいんですよ」
「助っ人?」
「はい、何でも相手チームにドラフト候補が3人、元プロの選手がいるらしいんです」
 加奈の言葉に白神は納得する。商店街チームは趣味で野球をする人たちの集まり、言い方を悪くすればずぶの素人がほとんどなのだ。
「ねえ、加奈ちゃん。対戦相手ってもしかしてスーパーのマルタカ?」
「確か、そうだったと思います」
 やっぱりと白神の予測は当たる。スーパー・マルタカは高洲屈指の社会人チームだ。数年前に社長が代わって以来、どんどん頭角を現し、今ではドラフト候補も出す程の名門チームである。
「でも何でわかったんですか?」
「毎年、この時期にマルタカと試合をしているからね。とは言っても最近は選手のレベルが違いすぎて、試合にならないみたいだけど……」
「そうなんですか」
 感心しきりの加奈に白神は少し苦い笑みを浮かべる。龍が野球好きなので、白神も実は結構野球に関しては詳しかったりするのだ。
「ところで、龍君達は?」
「えっと、もうすぐ戻ってくると思うんですけどね」
「もう帰ってるぞ」
 店の裏手から聞き慣れた声がして、白神はくるりと身を返す。首にタオルをかけた龍がユニフォーム姿でその場に佇んでおり、龍からは少し汗の臭いがする。
 龍の後には赤羽の姿だけがある。着ているユニフォームを脱ごうとして、加奈に止められている。
「理恵、依頼だ」
「いきなりね……」
 だいたい予想は付くけどねと、少し含みを持たせた笑みを浮かべ、龍を見据える。
「野球の試合に出るぞ」
「…………うん」
 やっぱりという面持ちで白神は気合いを入れ替える。休息は終わりだ。心なしかいつもより輝いて見える龍の横顔を一瞥して、白神は大きく頷いた。





 明くる日の朝、龍達は河川敷にある小さな球場を訪れていた。いつも商店街チームが練習に使っている練習場所だ。
 来週の週末に行われる試合にむけて、練習を行わなければならない。全員がそろって練習着に身を包み、各々のポジションの練習をしていく。ちなみに、龍はセンター、創はセカンド、赤羽はピッチャー、白神はショート、黒沢はキャッチャーという布陣である。
「次、ショート行くぞ」
 龍の鋭い打球が、白神を強襲する。打球にいち早く追いつく白神だが、打球の威力に押され、グラブからボールをこぼしてしまう。
「っと、抜かさせないよ」
 白神のこぼした打球を横っ飛びし、掴む創。練習をしはじめてまだ時間もほとんどたっていないのに、セカンドの動きをほぼマスターしつつある。
「食らえ、ジャイロボール!」
 妙な雄叫びを上げて、黒沢のミットに力のあるボールを投げ込むのは赤羽だ。心地の良い音を立てて収まるボールに、ガッツポーズをする。
「ただの棒球だ、お前の球は」
「何っ! ちっくしょう〜」
 一球投げる度に大きく一喜一憂する姿に黒沢は素っ気なく冷たい言葉を浴びせる。うるさいうるさいと煙たく思いながらも、黒沢は捕球しづらいボールに驚きを隠せなかった。
「やってるね、やってるね」
「大村さん」
「どうだい、調子は?」
 ノック兼打撃練習を行っていた龍が手を止めて、振り返る。商店街の会長・大村直久を一瞥して、頭を下げる。普段のような気さくさで接してはいるが、大村の表情が思わしくないことに龍は気がついていた。
「まあ、こんなものでしょう」
 うぉおおおっと気合いの入った声で咆吼する赤羽に一瞥をくれ、まだまだですけどねと小さく呟く。
「で、何か思わしくないことがあったんですか」
「隠せないか」
「そんな顔されたら当然ですね」
 龍の言葉に小じわを浮かべて苦い笑いを見せる大村。相変わらず鋭いなと呆れたような、感心したような複雑な表情を浮かべる。
「大げさに言えば、イップスだ」
「イップス……ですか?」
 首をかしげ、説明を待つ龍。いつの間に赤羽の球を受けていたはずの黒沢がやってきて、龍を一瞥する。
「イップスは、野球とかだと投手や内野手に多い。投球恐怖症のことだ」
「投球恐怖症?」
「ああ、大事な場面で一発を打たれたなどがトラウマになって、ストライクを取れなくなったり、腕の振りを悪くなったりすることだ。まあ、ここで大村さんが言おうとしていることはちょっと違うみたいだがな」
 黒沢に指摘されたとおりだとばかりに大村は肩をすくめ、表情を曇らせる。
「実は去年の試合で、マルタカビッグバンズにコールド負けを食らったんだ」
「そういえばそうでしたね」
 去年の商店街チームの試合を見ていた龍は投打に渡って全く歯が立たなかったことを思いだし、小さく項垂れる。あれと対戦しないといけないと思うとぞっとする。
「あの時、打順が一巡した辺りから戦意が消失していたんだ」
「インコースを抉る高速シュートか……」
「その通り。150km近い速球に匹敵するスピードのシュートが自分の体に向かってくるのはとても恐ろしいものだ」
 現場で指揮を執っていた大村の声がやたらと重く感じる。それもそのはずだ。その投手は去年末にプロで入団。開幕一軍で現在3勝をあげているのだから。
「ただその投手はいなくなったが、そのシュートがトラウマになり、打撃が全然ダメになったというところか」
「黒沢君の言うとおりだ」
 予想通りに答えに黒沢がふうとため息をつく。片やプロも輩出する名門、片や草野球同然の趣味のチーム。その差は歴然としている。雲泥の差を見せつけられてそれでも戦おうとする者が少ないのは当然だろう。
「去年の大敗を機にこの試合に出たくないと言う者が大量に出てきて、参加人数が皆無という状況になってしまったんだ」
「まあ、それはそうですけどね……」
 練習しているのがよろず屋を除いて4,5人しかいないのは困ったものだ。しかもその動きはぎこちなく、見ていられない。
「ダメだな……。これじゃあ、勝てそうにない」
 練習をしている創や白神を呼び寄せ、龍は深いため息をつくしかなかった。





「非常にまずい状況だ。はっきり言って勝てる見込みはゼロだな」
 黒沢の辛辣な言葉が容赦なくグラウンド内に響き渡る。練習していたメンバーを集めてのミーティング。どんよりとした空気に無言という最悪の雰囲気。どうしようもないと龍も心の中で思ってしまう。そもそもやる気のない人間に戦わせるべきではないし、酷だ。
「黒沢、そこまでにしておけ」
「ああ、解っている」
「今日はここで解散。残って練習したい人だけ残ってくれ」
 不満げな顔の黒沢を制して、解散の指示を出す龍。さっさと帰り支度していくメンバーを一瞥しながら、心の中で深いため息をつく。
「僕も帰ろうかな〜。ちょっと寄りたい場所があるし〜」
 ぽんぽんといかにもだるそうにうそぶく創は一瞬、龍を一瞥して、にやりと無邪気な笑みを浮かべる。龍は何かあるなと悟ると、白神に合図を送り、ついて行くように指示を出す。
「じゃあ、私はお昼の用意もあるし、創君と一緒に戻るね」
「お、おい。ちょっと白神……!」
「お前は黙っていろ」
 鋭く龍に睨まれ、ぐうの音も出ない赤羽だ。練習場を後にする創と白神をじっと見つめて、はあっとがっかりしたように項垂れる。
「どうやら尻尾を巻いて逃げ出したわけではないようだな」
「ああ?」
 聞き慣れない野太い声がして、赤羽は声のした方向にばっと向き直る。
 先程まで練習していた最後の一人がその場に立っていた。年齢はちょうど中学生か高校生の子供がいるくらいだろうか。精悍な顔つきは鋭いものを感じさせる。
「あなたは確か、4番の……」
「大野だ。ポジションはサード。本職は剣道教室の師範だが」
 まだ目が死んでいない、龍は大野の出で立ちを一瞥して、そんなことを思った。それに大敗した試合でも唯一最後まであの投手にバットを出し続けたのはこの大野だけだろう。
「あの化け物集団に本気で勝ちに行こうとしているのか?」
「それが俺らの仕事だったら、どんな野郎が来てもぶっ倒す!」
「まあ、そういうことです」
 でかい声で叫ぼうとする赤羽の口を塞ぎながら、龍は大野の言葉に頷く。満足げな表情を浮かべた大野は協力しようと片腕を前に出してくる。
「こちらこそ頼みますよ」
「ああ、他の連中を復帰させるにも頑張らないといけないからな」
 がっしりと龍の差し出した腕を掴んで、年相応の頼りがいのある笑みを浮かべて大きく頷く。
「今やらなきゃならないのは戦力の補強。そしていかに短期間でアンタの言う化け物集団に勝つかだ」
 黒沢の重い言葉を受けて、龍と大野の表情が引き締まる。
「何か策でもあるのか?」
「そのために、白神と創をわざとそとに出したんだろ?」
 赤羽の問いに、黒沢は龍の方を目をくれると不敵な笑みを浮かべる。赤羽はそんな2人のやりとりにクエスチョンマークを浮かべながらも、まあいいかとぐるぐると肩を回しはじめる。
「おい、赤羽」
「何だよ、黒沢?」
「グラウンド10周。今すぐやってこい」
 黒沢の何でもない一言にがくりと項垂れる赤羽。そりゃないぜと情けない声を上げる赤羽を無慈悲に蹴り飛ばし、黒沢はふうっと息を吐いた。





「どうして俺らがここにいるんだ?」
「そうだそうだ。俺には女……いや、患者が待っているんだ」
 グラウンドと無神経に広がる青空に異口同音、あまり主張度のない文句が響き渡る。それぞれ壺や注射器を持っている姿はグラウンドではあまりにも異端過ぎる。
「どうせ暇なくせに……」
 呆れたように苦い笑みを浮かべ、文句を言う寺川や藪田に一瞥をくれるのは智子だ。
「あー、いいですか?」
 有無を一切言わさぬ雰囲気を醸しながら、龍は創と白神が連れてきた助っ人候補をぐるりと見回す。連れてこられたのは、寺川、藪田、智子、そして長身の白人、大学生と思しき青年だった。
「えっと、ワタシはどうすればいいんですカ?」
 中々流暢な日本語を話す長身の白人――ジョン・S・ミシェルは陽気な笑みを浮かべたまま、創に訊ねる。ちなみにジョンは商店街で外国製品を売っていたりする。
「龍の話を聞いてればいいんじゃないかな〜」
「オオ、そうですネ」
 何故か創とハイタッチを交わし、納得したように何度も頷く。
「それで、社会人の名門相手にどうやって勝つつもり? まず無理でしょ」
 智子さんの頼みじゃなかったら来なかったと、呟きながら青年は自らの右腕を凝視する。
「彼は?」
 龍が隣に立つ白神にそっと尋ねる。白神は意味ありげな表情を浮かべて、智子をちらりと見る。
「私の従弟の山村孝です。高校ではピッチャーをやっていたから誘ってみたんですけど……」
 煮え切らない智子の表情を見ていると、何かあるなとすぐに解ってしまう。だが、高校で投手をやっていたというのは大きな戦力になるはずだ。
「勝算はある。そう上手くはいかないだろうがな」
 黒沢がはっきりと言い切る。黒沢が今回担当するのは守備の要・キャッチャー。黒沢のリード一つで状況が大きく変わってしまう重要なポジションだ。
「それと、そこのお前」
 黒沢は孝を指さし、強い視線をぶつける。
「何ですか?」
「シュートを習得しておけ」
 交差する視線、厳しく重い空気が辺りを覆い始める。険悪な雰囲気に辺りが急に静かになる。
「あのバカ以外、俺が球を受けるのはお前しか認めない。くすぶっている暇があるならとっと帰って、シュートの練習をしろ」
 黒沢はそれだけ言うとさっさと黙々と走り続けている赤羽に追いつくように、その場を足早に去ってしまう。と同時に孝もばっと反対方向に駆けだし、あっという間に姿が見えなくなってしまう。
「おいおい、ありゃ、黒沢の奴本気だぜ?」
「だな。俺らもちょっとは手を貸すか」
 寺川と藪田はお互いに向き合い、大きく頷く。先程までのふざけた雰囲気とは打って変わったような真剣な表情だ。
「ハハハ! ワタシも伝説のライルマンになりますヨ」
 ジョンがおどけたように近くに落ちていたバッドを拾い上げ、軽々と振り抜く。ぶんと豪快に空気を切り裂く音が辺りに響く。
「こう見えてモ、昔はベースボールで4番だったのですヨ」
 バッティングフォームからは無駄を感じさせないジョン。日本人離れした長身とパワーはかつて地元の球団・高洲ナイツの伝説の助っ人・ライルマンを彷彿させた。
「さて、ここからだ」
 龍はバットを拾い上げると、グラウンドですでに投球練習を行っている赤羽と黒沢を一瞥し、不敵な笑みを浮かべた。





 5月の半ばも過ぎると随分と気温も上がって、暑くなってくるらしい。梅雨も近いのか南から緩やかに吹き抜ける風は湿っぽく感じる。
 真上に昇った太陽が熱気を帯び始めたグラウンドと融合して、独特の雰囲気を醸し出している。絶好の野球日和と言えるだろう。
 マルタカビッグバンズと東商店街ライジングサンズの試合の火蓋が今切られようとしていた。試合開始は12時ちょうどだ。
 なお、両チームのオーダーは以下となっている。
マルタカビッグバンズ(先行)
1鴨田(三)右右(投打の順番で表記)
2中沢(左)右左
3谷中(中)右両
4清田(一)右右
5吉永(捕)右右
6和賀(二)左左
7野口(右)右右
8岡部(遊)右左
9川野辺(投)左左

東商店街ライジングサンズ(後攻)
1天堂創(二)左両
2白神理恵(遊)右右
3青木龍(中)右左
4黒沢大吾(捕)右右
5ジョン(一)左左
6大野(三)右右
7山本(右)右右
8金山(左)右右
9山村孝(投)右右

 マウンドには鋭い素振りを見せるマルタカの各打者に対して、萎縮し気味の山村孝。調子はあまり良くなさそうだ。ボールを受けながら、黒沢は厳しい表情を浮かべるが、何も言わない。
 二遊間の白神と創は急造とは思えない程良い動きを見せている。サードの大野、ファーストのジョンは流石に経験者らしく動きは慣れたものだ。外野もセンターの龍をはじめ、大野の呼びかけで戻ってきた外野手2人が参加してくれることになり、守りはある程度計算できるようになった。後は孝の出来次第だ。
「いよいよ、試合開始だ」
「どうなるんですかね」
 ベンチには藪田と寺川、そして監督役の大村がじっと試合開始の合図を待っている。ベンチの後方では、赤羽が応援に来た加奈と言葉を交わしている。
「さて、従弟君はどう立ち上がるかな」
 隣で心配そうに見つめる智子を一瞥して、寺川は側にあったスポーツドリンクを一気に煽る。プレイボールのコールと共に響き渡る強烈な打球音。センターに綺麗に抜けていく打球に、孝の顔が歪んだ。
「いきなりセンター前ヒット。甘い球はきっちりヒットにするな……」
 いきなりの先制攻撃に寺川はううんと唸る。腕が振れていない分、球威がなく、コントロールが甘く入るとすかさずヒットにされる。流石に名門チームと言えるだろう。
 続きざまの初球、一塁ランナーが俊足を発揮し、二塁を陥れる。立ち上がり不安定な投球の孝に揺さぶりをかけていく。
 2球目は外のボール球を見送り、ようやく相手側の動きがなくなる。3球目もワンバウンドでボールの判定。
「定石ではバントだが……、どう来る」
 寺川の呟いた言葉と同時に、4球目を投げる孝。少し甘く入った速球を強引に引っ張る二番打者の中沢。ぼてぼての当たりを創が捌いて、1アウトながら3塁とピンチを迎える。
 ここで登場するのはドラフト候補で俊足強肩巧打の外野手・谷中だ。左打席に入り、入念に足場を固める谷中を背中越しに黒沢はじっと見つめる。ここは流れを、主導権を握るためにも抑えたい場面だ。次の4番・清田も社会人屈指のスラッガー、逃げることはできない。サインを出し、黒沢はじっと孝を眺める。不安の色を露わにしながらも、投球フォームに入るその姿からは躍動感は感じられない。
 初球の変化球はあっさり見送られ、2球目のストレートは軽く当てただけのファウルボール。次のボールで2ストライクと追い込み、黒沢は思案する。孝の持ち球はスライダー、フォーク、ストレート、そして滅多に使わないカーブ。普段は制球で勝負するタイプらしく決め球に欠ける。生命線のコントロールもここまでは悪く、非常にまずい状況だ。
 ――シュートはまだ使えない。左打者には……
 迷った末に出したサインは膝元に食い込むスライダー。サインに頷き、セットポジションからボールを放つ。が、しかし萎縮して十分に振れていない腕ではコントロールは不安定で、甘く入る。それを谷中が見逃すはずがなかった。
「……やられた!」
 黒沢の声が強烈なインパクトによって生じた音にかき消される。鋭い打球が飛び上がった創のグラブの上を掠めて、抜けてゆく。右中間に落ちた打球を龍がカバーする間に谷中は一気に二塁を陥れた。
「流れがいきなりまずい方向に傾いてる」
「次のバッターが4番、嫌な場面が続くな……」
 ベンチで戦況を見守る寺川と藪田は右打席に入る大きく締まった体躯の男を一瞥して、表情をこわばらせる。社会人屈指のスラッガーは去年の試合でもホームラン2本5打点という飛び抜けた成績を残している。
 孝がサインに頷き、1球目を投げる。サインではインコース、ボールのストレート。だが、またしてもコントロールミスを犯してしまう。孝の放ったボールはインコースのストライク球。
 先程の谷中の当たりと比べるまでもなく強烈に響き渡るボールを捉える音。外野の龍、内野の創や白神が一歩も動けず、見送る先はフェンスを越えたバックスクリーンのスコアボードだ。どんと砲弾の様に突き刺さるホームランに唖然となる孝。がっくりと肩を落とし、マウンドにうずくまってしまう。
「あちゃ〜、あれは無理だね……」
 マウンドに駆け寄る創。その後に白神、ジョン、大野と続く。黒沢もキャッチャーマスクを取り、駆け寄ってくる。
「腕が振れてないですヨ。あれでは球威もコントロールもままなりまセン」
 何とか立ち上がった孝に声をかけるも上の空だ。まだ1回ですよと声をかける白神の声も虚しく響くだけだ。
「取られたものは仕方ない。大事なのはこれからだ」
「黒沢〜、しっかりリード頼むよ〜」
 マウンドからそれぞれの守備位置に散っていく創達。マウンド上の孝は少し落ち着いたのか、ふうっと息を吐き、自らの腕を眺めている。
 5番打者の吉永が右打席に入る。孝は先程より腕を振るうが、逆に制球難に陥り、フォアボールを与えてしまう。
 続く6番左打者の和賀を迎えるところで黒沢は孝にサインを出すのを止め、とにかくストレートで押すように指示を出した。
 打ち頃の荒れ球を引っかけさせ、ゴロに仕留める。創が計算しきったような動きでボールを掴むと、そのまま二塁へ素早く転送。受け取った白神が一塁へボールを送り、ゲッツーが完成される。
「少しはこっちに流れが来るかな?」
 ベンチに戻りながら、創はいたずらっ子の様に無邪気でそれでいて何か企むような表情を浮かべていた。





 1回の裏、商店街の攻撃が始まる。1番の創が左バッターボックスに入る。マルタカの先発は左腕の川野辺。ゆったりとしたフォームからキレのある直球と大きなカーブが武器の投手だ。元プロだけあって、データも豊富にある。
「さ〜て、ヒット打つかな〜」
 川野辺が捕手のサインに頷き、ゆったりとしたモーションからボールを放つ。打者の手元でくいっと伸びる速球だ。
「よいっしょっと!」
 らしくない大きなスイングを見せる創。バットの通った位置とボールの位置が全然違う。
「さあ、来い来い〜」
 二球目は手元で曲がるカットボールに似たスライダー、創はこれも空振りして2ストライクと追い込まれる。
「らしくないな」
「まあ、あいつのことだから安い三文芝居だろうがな」
 ベンチから川野辺を観察する黒沢に、プロテクターを付けている龍がいつものことだろと小さく呟く。と同時に打球音と共にサード方向に大きなバウンドを描きながらボールが飛び跳ねていく。三塁手の頭上を越えて、レフト前へのヒットとなる。
「大振りしてると見せかけて、上手くカーブをミートしたか。ナイスバッティングだ」
「ま〜ね〜」
 一塁ベースコーチャーの寺川とハイタッチを交わして、創は一塁ベース上から右バッターボックスに入る白神を一瞥する。白神は小さく頷くとバットを横に寝かせ、バントの構えを見せる。
「さあ、どう攻めるかな〜? 普通にバントをするか〜、エンドランをしかけるか〜、ヒッティングをするか〜」
 わざとらしく聞こえるように声を出し、ヘルメットのつばを触る。サインを出す振りを見せて相手を混乱させ。
「セオリー通りをオブラートに包むための作戦か」
 バントを綺麗に決めた白神と視線を交差させ、龍はバットを右手に歩き出す。
 戦場となるバッターボックスに向かって歩き出す。手には黒塗りのバットが黒竜の牙に代わって握られている。
「さて、切るか」
 左バッターボックスに入った龍はバットを構えて、マウンド上の川野辺に目を持って行った。

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