夢を見ていた。どこもかしこも深い緑に覆われた深遠な森の中を、私はさまよっていた。
 どうして何故夢だと解ったのか、それは私にもよくわからない。ただ、私が今見ている光景が現実の物ではないということだけははっきりとわかった。
 哀愁というのだろうか。心が切なくて、悲しくて、そして傷を抉られたように辛いのだ……。
 どこか心に引っかかりを持ちながらも、私は辺りを見回しながら、行く当てもなく歩いて行く。どうやら夢と解っていても醒めてはくれないらしい。
 しばらく歩いていると不意に視界が開けた。光のあまり届かない森では珍しい開けた小さな草原。広場と言ってもいいくらいの大きさだ。
 風が心地良い。私は目を閉じる。どこか懐かしい香りがした。
 ふと、誰かの声がして、私は瞼をゆっくりと開いた。幼い無邪気な笑い声がどこからともなく聞こえてきて、小さな少女が私の目の前を駆けていく。その後を追いかけるように美しい銀色の体躯の犬が走っていく。
 無垢な少女は広場を走り回り、私には気がつかない。白銀の体毛の犬をよく見ると少し犬とは違っているようにも見える。小さな違和感だが、何故かそこが気になった。
 やがて、少女は遊び疲れたのだろう。じゃれ合っていたと思っていたら、犬の体にそっと寄りかかり、小さな寝息を立て始めた。その穏やかで幸せそうな寝顔を見ているととても心が和んで、少し懐かしい気分になった。
 不意に誰かに呼ばれているような気がして、私は後を振り返った。そこには誰かの名前を呼ぶ青年の姿があった。辺りをゆっくりと見回し、疲れて眠っている少女を見つけた青年は私の前を通り過ぎていく。
 少女を見つめる青年の優しい瞳を見たと同時に、私の意識は急速にどこかへと引きずり込まれていった。





第5話 幻の狼を追え





 ゆっくりと意識が覚醒してきて、辺りの様子がぼんやりと見えてくる。誰かが白神の顔を心配そうに見つめていた。
「お、気がついたか?」
「りゅ、龍君……」
 視界がはっきりしてくると、龍の表情がはっきりとわかるようになった。どうやら、自分は長いこと倒れていたらしい。病院独特の消毒液の匂いが鼻をつき、診療室と思しき部屋の白い天井がぼんやりとした意識を覚醒させる。
「…………ここは?」
「ああ、普通の病院には運べなかったから、藪田さんの診療所だ」
「そう……なんだ」
 白神は少し潤んだ瞳をごしごしと拭うと、体を起こそうと力を入れる。しかし、起き上がることが出来ずに困惑した表情を浮かべる。
「まあ、3日も寝ていたから体に力が入らないのも当然だ」
 まだしばらくそのままでいておけと促す龍に、白神は小さく頷く。実際、体は未だに重たいままだし、龍の言葉に従った方が良いと判断する。
 がちゃりと病室の扉が開き、白衣を身に纏ったくせっ毛の男が、看護師と思しき女性を従えて白神のベッドまで近づいてくる。顔だけ男の方に向け、起きていることを伝える。
「ようやく起きたか。いや、しかし一時は冷やっとしたよ」
 くせっ毛の男が白神の手を取り、脈を取りながら話しかけてくる。
「まあ、アンタなら何とかしてくれると思ってましたけどね、藪田さん」
 どこ触ろうとしているんですかと龍は、脈を測っていない手を白神の脚へと伸ばそうとしていた男――藪田純二(やぶたじゅんじ)をじろりと睨みつける。
「いいじゃないか、ちょっとくらい」
「ダメです」
「ちっ。お前ら、やっぱり出来ていたのか……。おじさん、主治医として悲しいよ……」
 龍の言葉に嘘泣きをして返す藪田に白神は乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。さりげなく舌打ちを打ったのは聞かないことにしておこうと白神は思う。
「誰が出来ているとかそんな事実は全くないんですが、それよりも、あの症状をどうやって……」
「普通の病院に運んでいても、まず直せなかっただろうな。俺は解毒薬を持っていたから、何とかなったんだが」
 藪田はそう言って、白神の手を放すと、しばらく安静にしていると良いと言って立ち上がる。その時、藪田の表情に少し影があったような気がして、白神はそれが妙に気になった。
「あれは、気体の神経毒だな。この神経毒は相手をマヒさせて、行動不能にするブツだ。そいつを食らって動けなくなったんだな」
「なるほど。敵は毒使い……」
「それもかなりのな」
 気をつけろよ、と白神の目を一瞥する藪田。その目は先程までと変わって真剣そのものだった。
「ところで、龍。一つ頼まれてくれるか?」
「何ですか、いきなり」
「ちょっとな、きな臭い噂を聞いたんだ」
「きな臭い噂?」
「ああ、大地山の森を開発しようとする輩がいるらしい」
「何だって……」
 鋭い光を放つ龍の瞳がじわりと細くなる。そして表情も険しさを増していく。
 龍が顔をしかめるのも当然だ。大地山は霊験あらたかな神聖な地としてこの地では有名なのだ。それに大地山の森は多種多様な生命の宝庫でもあり、貴重な生態系を築いている。そんな場所だからこそ、地元の者から崇められ、守られているのだ。
「俺も信じがたい話だったんだがな。大村さんから聞いたときは焦ったよ」
「その話、大村さんからか」
「ああ、痔の治療をするときに話してくれた」
「おいおい……。患者のプライバシーの保護はないんですね……」
「げっ……」
「げっじゃないですよ」
 龍はあちゃーと目を覆う藪田を一瞥して、はあっと小さく肩を落とす。だがすぐに気を取り直して、白神を一瞥する。
「で、結局、そいつらの調査ですか?」
「いや、そうじゃないんだ」
 龍に声をかけられて藪田は慌てて居住まいを正す。クセの付いた髪がふわりと揺れている。
「奴らから恐らく依頼が来るはずだ。それを受けて欲しい」
「それも大村さんがわざと情報流したんですよね」
「さあな、詳しいことは闇医者である俺が知るわけないだろ?」
「わかりましたよ」
 しらばくれる藪田を見て、何を言っても無駄そうだと感じ、龍は依頼を受けますよと頷く。
「ああ、頼んだぞ。この件、大村さんは動けないからな」
 なるほど、と龍は納得したように首を縦に振る。商店街の会長である大村直久(おおむらなおひさ)は恐らくそいつらと何らかの繋がりがあるのだろう。下手に行動を起こすことは出来ないと言うわけだ。
 龍はまた面倒ごとに巻き込まれそうだなとうんざりする。それじゃあ、お大事にと、さっさと病室を出て行く藪田に一瞥をくれて、龍は深いため息をつくのだった。





 数日後、白神は無事退院した。十分に動けるようになったということで藪田のお墨付きももらい、よろず屋へと戻ってきたのだ。
「おかえり〜。やっぱ理恵ちゃんがいないとね〜」
「ちょ、ちょっと創君……!」
 いきなり玄関口で抱きついてくる創に、白神は困惑の色を浮かべる。端から見ると仲の良い姉弟が再会を喜び合っているだけのように見えるから尚更質が悪い。
「ふう、これでやっと、片付け地獄から解放されるぜ……」
「それはお前の責任だろ」
 白神がいない間、龍と黒沢にみっちり普段やらない片付けなどをさせられていた赤羽は、肩の荷が下りたとばかりに大きくため息をつく。そんな赤羽を黒沢はばっさりと切り捨てる。
「白神がいなくて、苦労したのは確かだがな」
 白神の胸に顔を埋めたまま、すりすりと小動物のような動作をしている創や、やったぜと少し涙を浮かべて白神の復帰を、両手を挙げて喜ぶ赤羽を一瞥して、黒沢は小さなため息をついた。白神が不在の間、一番苦労したのは、龍と黒沢なのは過言ではない。
「あ、お帰りなさい。理恵さん」
 店番をしていたはずの加奈がやってきて、白神を見て、ほっと安堵の表情を浮かべる。だが、すぐに隣にいる龍に視線を移し、加奈は依頼人だよと告げた。
「ああ、わかった。すぐ行く」
 創に行くぞと促し、龍はよろず屋の中へと入っていく。後を慌てて創が追いかける。
「おい、赤羽。行くぞ」
「え? あ、ああ。そうだな」
「白神はどうする」
「私も一応行くね」
「そうこなくっちゃよ」
 赤羽と黒沢の顔を交互に見て、白神はくすりと笑みを浮かべる。いつもの光景に白神の心は少し穏やかになった、気がした。





「あんたらが、よろず屋か」
「そうです。自分はよろず屋のリーダーの青木龍です」
 先程までと全く違った研ぎ澄まされたまさしく真剣な表情。依頼人である高級そうなスーツに身を纏った壮年の男達を静かに一瞥して、龍は丁寧に答える。
「金さえ積めば何でもすると聞いてな。どうしてもあんたらにしてもらいたいことがある」
 随分高圧的な態度だな、龍はそう思う。こちらを内心ではバカにしているというか、なめられているのは確かだろう。
「では、そのしてもらいたいこととは何ですか?」
 龍はあくまでも慎重に、丁寧な口調を続ける。隣で少し顔をしかめている創に、我慢しろと目で伝えながら、龍はソファにもたれている男達と向き合う。
「にわかに信じられない話だが、狼が現れたらしい」
「狼? 日本の狼は絶滅したと言われていますが」
「ああ、何人もこちらの作業員が襲われていてな。ハンターを雇っても、仕留めることはできなかった」
 話を聞きながら龍は思案する。恐らくこの男達が藪田を通して大村が依頼してきた者達だ。森の中をすみかとする狼に遭遇する確立など、まず森の中でないとほぼ0だ。それに……。
(狼か…………。少し気になるな)
 龍が先程言ったとおり、日本に生息していた狼二種は20世紀初頭に絶滅したとされているし、かといっていくら野犬となったとは言え、犬が作業員ばかり狙うのは少し不可思議だ。ならば、龍が選ぶ選択は一つしかない。
「わかりました。その依頼、受けましょう」
「えっ、受けるの、龍」
 黙っていろと目で創を制しながら、龍は男達に刃のように鋭い瞳を向ける。
「依頼は幻の狼の除去、でいいですね」
「ああ、構わない」
「では、契約書にサインを……」
 男の秘書がさっと紙を龍に手渡し、サインを促す。龍はそれに流れるように筆を滑らせていく。
「契約完了ですね」
「ああ、頼んだぞ」
 独特の威圧感を放つ男をじっと見つめながら、龍は頷く。男達がよろず屋から去るのと同時に、創がほっとした表情を浮かべて、体をソファに落とす。
「あ〜〜、疲れたよ。何様なの、あいつら」
 ぷんぷんと腹を立てる創を一瞥して、龍は何も言わずにただ黒竜の牙を取り出す。
「流石に、あれほどなめられているとはな。そこのバカを出さなくて良かったな」
「今でも腹立つぜ。くっそー、何であんな奴らの依頼を受けたんだよ」
「よせ、赤羽。今は黙っていろ」
 龍はちっと不満げに舌打ちする赤羽を気にすることなく、隣の黒沢を一瞥して、首を縦に振る。
「わかった。付き合おう」
 グローブをいつの間にかはめた指をバキバキ鳴らしながら、黒沢は龍と鋭い視線を交えた。そんな2人を見守りながら、白神は言いしれぬ不安とフィードバックする夢の狭間で頭を悩ませるのだった。
「大丈夫ですか、理恵さん」
「あ、心配させちゃったかな、加奈ちゃん」
「……何か、心配なことでもあるんですか?」
 無理に笑おうとする白神を制して、加奈は小さく呟く。
「えっ……、何でもないよ」
「そうですか。ならいいんです。……でも」
 区切るように言葉を止め、加奈は日だまりのような笑みを浮かべて、黒竜の牙を振るう龍と魔術で生成した爪で応戦する黒沢の実戦と言う名の鍛錬を見つめる。
「何があっても、お兄ちゃんも黒沢さんもいますし、大丈夫ですよ。だから……」
「ありがとう、加奈ちゃん……」
「俺や創もいるしな」
「だよ!」
 驚いたように白神が振り返ると、脳天気にすら見える明るい表情の赤羽と創が親指を立てて、笑っていた。
「ふふ、それもそうね」
 小さく笑いながら、白神はどこまでも澄み渡る空を見上げて、小さく呟いた。その声は誰にも届くことなく、ただ風に揺れていた。





「さてさて、私たち、よろず屋探検隊は現在未開のジャングルに足を踏み入れています。いったい、何が待ち受けているのでしょうか〜」
「さあな、とりあえず狼が出てきてくれないと困るんだけどな」
 テレビ番組の実況のマネをする創の言葉に、龍は苦い笑いを浮かべる。後では赤羽がきょろきょろとどこまでも続く木々を興味津々そうに見回している。
 ジャングル、もとい大地山の麓にある森――通称、鎮守の森にやってきていた。もちろん、ジャングルとは全く違う日本の森である。鬱々と木々が生い茂り、日光もあまり差し込まないこの森はかなりの大きさを誇る。
「しかし、本当にいるのか。どうもうさんくさい気がしてな」
「まあ、現実的に考えれば、狼なんてもう100年近く見つかっていないしな。いないと考えるのが妥当だろう」
「狼ならいるよ。姿を見せてないだけでね」
 龍と黒沢の会話に口を入れたのは、意外にも白神だった。白神の真剣な表情に、龍は本当はいるかもしれないと思う。
「白神がいると言うのなら、本当だろうな」
 黒沢も納得したように頷く。
「さて、ここからだな」
「ああ」
 先頭を行く龍と黒沢は足を止めて、今までの森と全く違う雰囲気を醸し出す鎮守の森の中心部への境界を一瞥した。深遠と言えばいいのだろうか、昼間の喧噪とはかけ離れた日中でも暗い森。霊峰・大地山のお膝元でもあるため、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「気をつけてね、ここからは本当は人間が足を踏み入れてはいけない場所だから……」
 白神の言葉に龍が少し緊張した面持ちで頷く。創や赤羽は理由がよくわからず、戸惑った様子だが、黒沢に首を横に振られると黙ってしまう。
「森の声がそう言ってるの……。だから」
 動物の声を聴くこともできる白神の言葉だからだろうか、創や赤羽も妙に納得してしまう。しかし、どことなく白神のいつもと異なった様子が龍は気になっていた。この状態は俗に言う……。
「トランスか。少し呑まれかけているな」
 黒沢の言葉に黙って首を縦に振る龍は、白神の前に立ち、射貫くような視線を向ける。
「……はっ。わ、私…………」
 我に返った白神が大きな黒水晶の瞳をぱちくりと見開く。そんな白神の様子を理解できないように、赤羽と創は頭にクエスチョンマークを浮かべている。
「簡単に言えば、この森全体が俺達を追い返そうとしているわけだ」
 鋭すぎる感覚は時として、諸刃の刃ともなり得る。病み上がりで万全ではない白神を侵入者を歓迎しない森の意志は手中に収めたのだろう。幸い、気の扱いを知る龍がいたため、白神が完全に呑まれることはなかったが。
「相当厄介だな。ここまで歓迎されてないとはな…………」
「まあ、木を切ろうとしている輩もいるし、当然と言えば当然だ」
「そうね。何か来るよ…………」
 黒竜の牙を既に抜刀した龍とグローブを装備した黒沢に、白神の緊迫した声が届く。二人は黙って頷くと、近づく気配に構えを取る。
「え、何か来るのか?」
「う、嘘〜〜」
 慌てて構える赤羽と創を一瞥して、白神は一気に意識を集中し、精神を高めさせていく。ざわめく森の音を敏感に感じ取り、白神は黒目がちの目を大きく見開いた。
「来るぞ」
 裂帛の気合いと共に、龍と黒沢が後に飛び退く。一呼吸遅れて、鋭いかぎ爪が光の如く振り下ろされる。そして、大地に降り立ったのは、巨大な犬……いや、狼だ。胴体の長さは1.5m程もある。
 そんな巨大な体躯に、威嚇した目とむき出しの牙があるものだから、かなりの威圧感を放っている。
 白神は自らの前に立ちはだかり、唸り声を上げている狼を見て、どこか懐かしいような、寂しいような、暖かいような、不思議な感覚に苛まれた。
「いきなりのお出ましか……」
「ああ」
 赤羽が両腕に炎を纏うと同時に、黒沢も鋭い爪を生成する。目の前で低く腹に響く唸り声を耳にしながら、龍は緊張感を高めていく。
「狼か。しかもかなりでかいな」
「さ〜て、どう料理してあげようか」
「創、俺達がやるのはこいつを止めることだ」
「ちぇ……。わかったよ」
 殺すなよと目で伝え、龍は黒竜の牙を構える。黙って創が頷くと同時に、黒沢と赤羽が動いた。赤羽が右から、黒沢が左から回り込む。
「食らいな。火竜拳」
 赤羽が灼熱の炎と共に腕を狼に向けて振るう。狼は高い跳躍でそれをかわすと、龍目がけて、鋭利なかぎ爪と共に飛びかかる。
「創、いいな!」
「任せてよ〜」
 龍が間一髪のタイミングでかぎ爪をかわす。続いて、大きく伸びた鋭い牙を口ごと、鞘で受け止める。創はワイヤーを素早く貼り巡らせていき、狼の動きを制限していく。
「留めだね。現世の繭(うつしよのまゆ)
 創は銃弾を狼の体すれすれに放っていく。狼はそれをかわすことはできるが、動けなくなる。銃弾と共に仕込まれたワイヤーが動きを阻み、そして体の周りを縛られて、まるで繭のように包まれて、全く身動きをとれない状態にする。
「さあ、捕まえたけど、これからどうするつもりなの、龍?」
「待って、この子を放して」
「おいおい、ちょっと待てよ……」
 創の言葉に答えたのは、龍ではなく白神だった。いきなりのことに赤羽が目を剥く。そんな赤羽に黒沢は黙って首を横に振る。無言の瞳が今はおとなしくしていろと告げている。
「ねえ、どうして、こんなことをしたの……」
 そう言って顔だけ出た狼の鼻にそっと手を触れる白神。そっと瞳を伏せ、意識を通わせる。
 その様子をじっと眺めて、龍は黒竜の牙を鞘に収める。創は相変わらずワイヤーを握る手を緩めることはないが、ただ黙って事の顛末を見届けるつもりで、動く気配はない。
「大丈夫…………、私たちは敵じゃない。この森を守ろうとしているだけ……。だから牙を向けないで」
 白神の優しい声音に合わせて、狼の瞳に帯びる色が変わってくる。それは敵意をむき出しにしたものから、白神に甘えるようなそんな優しいものへと移りつつあった。
「もう、大丈夫。放してあげて」
「え、でも…………」
「理恵がそう言っているんだ、放してやれ、創」
 龍の言葉に渋々と言った感じで創がワイヤーを解き放つ。狼は白神に制止されて、動かないままだ。
「ね。言ったとおりでしょ?」
 創はむむっと狼をじっと眺める。現世の繭で縛り上げたのだ、恨まれていてもおかしくない。だが、狼は創のことなど気にも留めずに、白神の方を向いて尻尾を振っている。
 そんな様子を目にして、創はふっと肩を落とそうとして、振り向いた。どこからともなく低く響く地鳴りと共に、人の頭ほどの大きさをした岩が次々に降り注いでくる。
「まずい」
 龍が鋭く抜刀し、黒竜の牙で岩をいなす。一方、創はワイヤーを貼り巡らし、防壁を形成する。創の脳裏には一人の少年の姿がフラッシュバックしていた。
「あ、ちょっと、待ってよ」
 いきなり森の奥へと向かって走り出した狼を追いかけて、白神が駆け出す。黒沢が追撃を行う岩を爪で叩き落としていく。
「龍、ここは僕に任せて」
 ワイヤーと銃のコンビネーションで岩を破壊していく創に言われて、龍は少し戸惑ったような表情を浮かべる。岩を叩ききりながらも、創に目で確認を取ろうとする。
「いいから行って!」
 創の普段とは異なった声音に、龍だけでなく、黒沢と赤羽も目を見開く。わかったと一言、口にして、龍は黒竜の牙を収め、走り出す。その後に赤羽と黒沢も続く。
「さ〜て、そろそろ出てきてもいいんじゃないの、レオン?」
「まさかお前がいるとはな、創」
 岩の礫を払いのけながら、創は、近くの木に降り立った少年を、普段とは全く違う殺気の籠もった瞳で一瞥する。レオンと呼ばれたあどけなさを残す少年の言葉に、創は少しにやりと笑みを浮かべた。





「どうやら今回の依頼、赤い風が関わっているみたいだね〜。まさか、赤い風の八闘将が出るとは思ってもなかったよ」
 創の言葉に、レオンの眉毛がぴくりと動く。何故、それを知っている、そう言いたげな表情だ。
「さあね。どうしてでしょう〜?」
 銃を抜き、素早く発砲する。レオンはよけることなく泰然とした様子で佇んでいる。銃弾はレオンに届くことなく、勢いを失い地面へと転がる。
「流石に、サイコキネシスの持ち主相手に銃は効かないか……。でも」
 レオンが再び岩を宙に浮かし、創目がけて放つ。的確な射撃で岩を砕きつつ、創はレオンと距離を詰める。
「食らえ!」
 レオンに向けてナイフを投擲するが、ナイフはまるで岩に流れを切られた水のように逸れて、後方にそびえる大木に突き刺さる。
「無駄だ。創」
「さて、どうかな?」
 創が指をひねると、ワイヤーがレオンの体に巻き付き、動きを止めていく。いくらサイコキネシスを持とうが、ワイヤーがそれ以上の力で動かされれば、動くのだ。
「ぐっ……」
常世の繭(とこよのまゆ)
 創はレオンを縛り上げると、おもむろにナイフをいくつも取り出し、無造作に繭に向かって投げつける。特殊な刃で作られたナイフはワイヤーごとレオンの体を突き刺す。
「これで……終わりだよ」
 無邪気な声音で呟き、創はその場を立ち去る。龍が追いかけていった方向に歩き出した創は、常世の繭に包まれたレオンを一瞥して、静かに目を閉じた。
「レオン・フォード。生きてますね」
「当たり前だ」
 ワイヤーを突き破り、あちこちから血を流したレオンが姿を現す。氷の礫と共に現れた少女・白雪を睨み付けながら、ぽきぽきと指を鳴らす。
「撤退です。外道に何を言われたか知りませんが、これ以上はマスターを怒らせることになります」
「ボスか…………」
「この件に関する、後始末は権藤にやってもらいます」
「あの豚野郎か」
 吐き捨てるように呟くレオンに、白雪は表情一つ変えずに黙って首を縦に振る。
「まあいい。俺は戻る」
 レオンは不機嫌な表情のまま、サイコキネシスを発動し、自らの体を浮き上がらせる。そしてそのまま、上空へと舞い上がり、青空の中へと消えていった。
 白雪はその様子を無表情のまま、眺める。瞬時に吹雪が吹き、白雪の姿もまた、見えなくなってしまった。





「どうして、いきなりこんなところに…………」
 息を切らし、膝に手を置く白神の目の前では、狼が前足を器用に使って地面をせっせと掘っている。掘り返された土の奥からは泥に汚れてはわかりにくいが、小さな布きれのようなものが見える。
「これは……」
 掘った穴から覗く布きれを引っ張り出し、白神は目の前に持ってくる。薄汚れているが、どこか見覚えがある花の刺繍、そして土の匂いと共にかすかに漂う懐かしい匂い。
 ――理恵
 強烈な白光が脳裏に閃き、目の前で微笑む青年の姿と側に佇む狼の姿がフラッシュバックする。
 ――決して逃げられはしない……
 低くどこまでも響く声が、黒い影と共に白神の目の前に現れる。強烈な悪意に吐き気がこみ上げてくる。
 ――もう止めて、助けて……
「もう、止めて」
「理恵、気をしっかり持て……!」
 強引に顔を向かされた白神に、裂帛の気合いのこもった視線を龍は突き刺す。はっと白神の目が光を取り戻す。はぁはぁと荒い息と強烈な嘔吐感に見舞われ、崩れ落ちる。
「はぁはぁ……、りゅ、龍君……」
「おい、どうしたんだ!」
 丸くなった背中を労るようにさすりながら、龍はいきなりのことに少し戸惑いを隠せない。それが一瞬の隙を産んだ。鳴り響く銃声に一瞬の反応が遅れた。
 肉を貫く焦げ臭い臭いと、獣のような、いや、獣の絶叫。白神と龍を守るように自ら身を挺したのは狼だったのだ。
「な、どうして……」
 龍は黒竜の牙を抜き、凶弾を放った男に一気に距離を詰める。ライフルを男の手から叩き落とし、首筋に切っ先を突きつける。
「うぅ…………」
「邪魔だ」
 白神の呻き声に龍は、男の首筋に手刀を放ち、深く意識を落とす。そしてすぐさま白神の元に戻る。
「大丈夫か」
「血を……、血を止めないと…………」
 白神は思うように動かない体を引きずりながらも、狼の白銀の体躯を濡らす血を止めるように、手をかざす。
「大地の力と共鳴……せよ…………」
 暖かな白く清い光が傷口を覆い、優しく癒していく。普段よりも光が弱々しいが、ここが生命の豊富な森であったため傷の治りも早い。
「さあ、出てこいよ。付けてきてるのは解っているんだ」
 治療を行う白神と狼を庇いながら、龍は黒竜の牙を構える。木々の奥から現れたのは、依頼人である壮年の男と、そしてプロの殺し屋だと思われる10人ほどの人影だった。
「契約違反、だな。よろず屋」
「いや、俺達はまだ任務の途中ですが?」
「狼を殺るのがお前らの役目ではなかったかね?」
 射貫くような鋭い視線が狼の前で交錯する。龍と壮年の男は互いに動くことなく、腹の探り合いと言った様相だ。
「いいえ、俺らが引き受けた依頼はあくまでも除去……ですからね」
「殺す必要はないと……」
「ええ」
 龍の真剣のように研ぎ澄まされた表情に、壮年の男はくいっと手を動かすと、人影がふっと消え、龍の周りに鋭い白刃が次々に放たれる。黒竜の牙でいなし、そして流れるような動きで敵の包囲網をかいくぐる。
 追撃しようと追いかけてくる男達が突然炎に行く手を阻まれ、立ち往生する。そこに黒沢が拳と蹴りを次々に男達の体に突き入れていく。
「危険一発ってか?」
「それを言うなら危機一髪だ」
 強烈な拳打を残った男に浴びせてのびた男をぱっと手放し、地面に叩き落とす。
「さあ、残ったのはアンタだけだ……って逃げられたか」
「まあ、何とかなるだろ」
「お前は楽観的すぎるんだよ」
 くすぶっていた炎を消した赤羽に黒沢が呆れた様に冷たい視線を伏せる。龍は壮年の男のいた方向をじっと眺めながら、小さく息をついた。





 薄暗い森の奥を走っていた男は荒い息をつき、胸を押さえてうずくまった。
「ぐっ、こんなはずでは……」
「こんなはずでは、とはどういう意味なのでしょうかね?」
 無邪気な笑みを浮かべた少女はうずくまる男の前でただ佇むだけだ。しかし、男が動くことは出来なかった。
 少女から放たれる雰囲気はその華奢で無垢な出で立ちから想像できない程、どす黒く悪意に満ちたものだった。
「ああ、こんなところで死にたくないという意味でしょうか?」
「…………」
「こんなところとは、ずいぶんな言い方ではありません? こんな自然の豊かな場所、他にはそうそうありませんのに」
 ずるりと男の体が宙に浮かぶ。そして糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
「ふふふ、あなた如き、おもちゃにもなりませんわ」
 少女は華奢な出で立ちに似合わない妖艶な笑みを浮かべたまま、その場を立ち去る。
「あははは」
 控えめながらも、こらえきれない笑みを浮かべて、少女はその場から消え去った。少女の去った後には何も残らず、少女の笑い声だけが深遠な森に響き渡っていた。





「ねえ、この子をよろず屋において良いかな?」
 狼に倒れかかるように体を預けていた白神は目を覚ますと、そんなことを口にした。
「この子は私が昔飼っていた狼の子供なんだ……」
 どうしてそんなことを言うんだと言おうとした龍を遮るように、白神は優しげな笑みを浮かべた。思いも寄らぬ言葉に驚いたのだろう、赤羽だけでなく黒沢も目を見開き、目の前で横たわり、静かな寝息を立てる狼をじっと見つめる。
「だけどな…………」
「いいじゃん。飼おうよ〜」
 いきなりの声に龍は黒竜の牙を手に振り向く。警戒したような表情がすぐに緩み、目を細め息を吐き出す。
「創か。上手くやったのか?」
「ばっちしだよ〜」
 創はVサインを掲げながら、もちろんと首を大きく縦に振る。
「んで、お前達の意見は?」
「おっし、飼おうぜ!」
「好きにしろ……」
 よっしゃーと拳を固める赤羽と、その横で呆れて物も言えない黒沢。龍も黒沢の言葉に諦めたように、仕方ないなと肩をすくめる。
「ありがとう、龍君」
「それでお前がいいならな」
 ぽんと狼の頭に手を置きながら、ぶっきらぼうに龍は呟く。はあはあと口を開け、尻尾を振る狼を見て、龍はこっちの負けだと言わんばかりに目を閉じた。
「んじゃ〜、よろしくね。ロー」
「ロー?」
 創のいきなりの命名に龍はおいおいと安直すぎるネーミングにあきれ顔だ。
「がふっ!」
 しかし大きくしかし嬉しそうに吠えているところを見るとどうやらローで決定らしい。どうとでもなれと龍は開き直って、ゆっくりと立ち上がる。
「さて、帰るぞ」
「うん」
 体の動かない白神の体を持ち上げ、ゆっくりと歩き出す。その後を黒沢とローが、そして遅れて赤羽と創も追いかけてくる。
「ありがとう……」
 小さいながらもはっきりとした言葉は、龍の耳にだけ届く。そっと笑みを返し、龍はああと頷き返した。

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