梅雨の最中に訪れた荒れ狂う風と雨をもたらす嵐が、容赦なく重厚な屋根の金属とぶつかり、おどろおどろしい音を立てている。
 時折青白い閃光と共に猛々しい爆音が空を駆け抜けていく。どこかその音が弱きものの悲鳴のようで心地よい。
 目の前には飢えた獣たちの牢獄。どの者の瞳の奥には狂気が秘められている。いや、今はむき出しに晒されている。
 身なりの良い少女の姿を確認し、切り裂き、喰らい、犯し、壊したいと幾つもの目が語っていた。
「ふふふ」
 少女は似合わないはずなのにやけに似合う妖艶な笑みで獣たちの微笑みかけた。獣たちの咆吼が一斉に飛び交う。
 汚いヤジを一身に受けても少女の笑みは全く崩れず、流れるようにゆっくりと廊下を歩き出していく。
 やがて少女はこの牢獄の最下層、光も音もほとんどない、ただ1人の男を捕らえておくための場所へと足を踏み入れ、立ち止まった。
「…………何の用だ、ガキぃ」
 最下層に存在する牢獄の奥、気持ち悪い程に闇に覆われたその場所から地鳴りのように低く声が響き渡る。
「あら、レディに向かってガキは失礼ですわよ?」
 にっこりと微笑んだまま、少女がぱちりと指を鳴らすとぼんやりと室内に明かりが灯され、鎖で厳重に縛り付けられた大柄な男の姿が照らし出される。
「…………もう一度、聞こう。何の用だ」
 男は不機嫌そうに顔をしかめると試すように少女の全身を一瞥する。
「貴方をここから放してさしあげましょう。帝の鎧、さん?」
 男は驚きに包まれた表情を浮かべたが、少女は気にすることもなく妖艶な笑みを浮かべ、両腕を高く掲げた。
「俺は目的以外のことをするつもりはない。それでもいいのか?」
「ええ、十分です」
 男の言葉に少女はそれで良いとばかりに大きく頷きを返す。その無邪気な笑みに男はただ邪悪な笑みを浮かべて応える。バリンと派手な音がして、男の体を覆っていた鎖が粉々に砕け散り、男がむっすりと大きな体を揺らして立ち上がる。
「……さぁて、待っていろ。お前を喰らい尽くそう」
 男は狂ったような笑い声を上げながら、勢いよく右腕を掲げる。血管の浮き出た指が闇の中で蠢き、そして男の姿はその場から忽然と消えてしまう。
「ふふふふふ。楽しいことのはじまり、ですね」
 堪えきれず発せられた笑い声は不意に訪れた雷鳴の音にかき消されてもなお響き渡っていた。





第11話 風の申し子を救い出せ(1)





 降りしきる雨はその激しさを刻一刻と増していく。踏みしめる大地はぬかるみ、歩きづらいことこの上ない。それでも走り続けなければならなかった。追っ手はすぐそこまで迫っている。
 凄腕と言われる帝の剣の手から逃れようとしていたのは、小さな男の子を抱えた女性だった。髪を振り乱しながらもぬかるんだ地面を走り抜ける様は、人外と映ってもおかしくない程だった。いや、ある意味この女性は人外と言えるだろう。異端能力者、一般には知られていない能力を有するもののことだ。彼女もその力を有していた。それ故に追われることとなっていた。
 山の中を女の身で走るのは厳しいはずなのに、彼女は鬼気迫る形相で追っ手を捲き続けていた。
 やがて、山を抜けた女性は眼前に広がる比較的大きな都市に身を飲み込ませて、ある目的地を目指していた。かつて、彼女自身が世話になったことのある数少ない知り合いに。
「もうちょっとだからね。我慢してね、智也」
 胸の中で青白い顔をして眠る少年に声をかけながら山道を駆けていく女性の前に、二つの人影が現れ不意に女性の足取りが止まる。
「まさか逃れられると思ったのか、風雅」
 二つの人影のうち男と思しき方が雨の音をかき消すように大声を上げる。
「思っていない……。だけど、それでも力ずくで通させて貰います」
 女性の周りに目には見えない空気の流れが生じ始め、追っ手の2人がぎりりと半歩距離を離す。
「朧、それに霞。貴方達とは言え、この子のためにも邪魔はさせられない!」
 空気の流れが一層激しさを増し、雨粒さえをも巻き込み吹き荒れはじめる。暴風と化した女性に朧と霞と呼ばれた者達は動くことが出来ない。
「病を患っているにも関わらず、これほどの力……」
 歯をぎりりと軋ませながら、朧は鞘から刀を抜き、構えを取る。黒い装束が激しく揺れる様を肌で感じ取りながらも、じわじわと距離を詰めていく。
「朧、上だ」
 後から凜と響く声――霞が指さした先には小さいながらもかなりの威力を含んだ竜巻が放たれていた。
 すぐそこまで迫り来る竜巻の牙を何とかかわすが、見定めたかのように駆け抜ける白い腕。鋭い刃にすら見える手刀が朧の鼻を掠めていく。
「ぐっ……。囮か」
 文字通り風に乗り、女性は駆けていく。朧に手刀を繰り出すと同時に、勢いに乗った女性は霞の追撃も振り切り、あっという間にその場から消えてしまう。
「まだだ。恐らくそう遠くへ入っていないだろう」
 朧は黒装束を翻し、真っ白な仮面をかぶると霞を一瞥し、夜の闇へと溶け込んでいった。





 梅雨も中盤を迎え、日本列島に接近した嵐の影響もあってか降りしきる雨の勢いも増してきている。店頭付近の窓は、横殴りの雨で雫がひっきりなしに滴り落ちていて雨の強さを物語っている。
 目の前にある資料から目を離して、龍は6月にしては冷え込んでいる室温に体を少し震わせ、湯気を立てている温かいお茶を口にしていた。
 それにしても酷い雨だ。依頼も全く来ないし、おまけに大雨や洪水、暴風といった警報まで出ているらしい。
 ふうと小さくため息をつくと、龍はもう一度資料に目を通す。調べているのは祭りで遭遇した鬼だ。姿形は人そのものだったが、発するその気配だけは人ならざるものそのものだった。手がかり自体は皆無だ。それでも調べずにはいられなかった。
「どう、進んでいる?」
「いいや、あんまり手がかりはないな」
 お茶のおかわりを運んできた白神が資料を覗き込んでくる。龍が静かに首をすると小さな声でそっかと項垂れる。
「ごめんね。私のせいで……」
「気にするな。俺が好きにやっていることだ」
 龍はしゅんと項垂れる白神に向き合うと、表情を崩し、持ってきたばかりのお茶に口を付ける。じんわりと広がっていく茶の香りが疲れを癒してくれる。
「それにしても凄い雨だよね」
「まあ、台風の影響で梅雨前線が活発になっているんだ。台風がいなくなったらこの雨も収まるだろ」
「そうだね」
 お茶菓子を差し出しながら、白神は側にあるイスに腰をかけると気分を落ち着けようとお茶を口にする。
「そういえば幟とかはしまったの?」
「ああ、赤羽に片付けさせた」
 ガタガタと窓を揺らす激しい風に白神はいつも店の外に置いてある幟について龍に訊ねた。龍は赤羽のめんどくさそうな表情を思い浮かべながら頷き、お茶を更にすする。
 とその時だった。店の外で何かが叩き付けられたような音が雨の激しい雑音と共に2人の耳に入ってきた。お茶菓子に舌鼓を打っていた2人は互いに顔を見合わせると、龍が立ち上がり店の扉の方へ近づいていく。辺りを見回し、そしてふと顔を止め、目を見開く。
「理恵、やばいぞ。人が倒れている」
 龍は慌てて扉を開き、吹き付ける風雨を気にすることなく、倒れている人間に近づく。
「大丈夫ですか」
 倒れていたのは女性だった。胸に竜昇ほどの年齢の子供を抱えている。龍は女性を抱え上げ、急いで店内へと戻る。
 大きなタオルを抱えた白神が目を見開き、急いで冷え切った女性と少年の体を温める。暖房を効かせ、室温を一気に上げる。
「どうなっているんだ、これは」
 龍は目を覚まさない女性と少年を一瞥し、厳しい表情を浮かべる。
「とりあえず気は失っているけど、2人とも何とか安静な状態には持って行ったよ」
 額の汗を拭い、白神は疲れたような表情を浮かべる。応急手当をしたお陰で一命は取り留めたようだ。だが、あのまま外に放置されていたら命を落としていただろう。
 お疲れ様と白神にねぎらいの言葉をかけ、龍はまだ青い顔のままぎゅっと瞳を閉じる少年を一瞥し、小さくため息をつくのだった。





「それで、こういう状況になった訳か」
 黒沢は横でふぁっと大きな欠伸をしている赤羽に肘打ちを加えながら、布団に横になったまま動かない女性と少年に目をやる。
「なるほどね〜。それで2人の何か手がかりになるようなものはあったの〜?」
 少し眠そうに目をこすったままの創がじっと腕を組み、思案にふける龍に訊ねる。
「いや、ほとんどなかった。身分の手がかりになりそうなものはな」
「うん、本当に身の回りのものは何も持ってこなかったって感じなのよね」
 龍の言葉に補足として付け加える白神の表情も冴えないままだ。
「う〜ん、何か少しでも手がかりがあったらどうにでも調べられるんだけどね〜。困ったなぁ」
 創は大げさに頭を抱え込み、どうしようもないという意思表示をする。確かに情報が皆無な状況ではどうしようもない。
「あ、創君。静かにして」
 少し声の大きかった創に慌てて白神が注意をするが、その声に反応したのか少年の瞼が苦しげに動き出し、それと同時に今まで全く動きのなかった体ももぞもぞと動き出す。
「ん……、お母さん……。ここは……」
 完全に目が覚めたのだろう。寝ぼけ眼のまま、上半身を上げ辺りを見回す。
「大丈夫?」
 怯えた気配を感じ取った白神は優しく微笑み、少年をじっと見つめる。ひっとか細い悲鳴を上げた少年はたじろぐが、白神の黒水晶のように澄み切った瞳を見て安心したのだろう、上目遣いに小さく頷く。
「流石、白神っと言ったところか」
 黒沢は前髪を掻き上げると一瞥をくれることもなくその場を去ってしまう。
「…………お姉ちゃんは?」
 消えてしまいそうな程小さな声で少年が訊ねてくる。白神は笑みを浮かべたまま、そっと少年の頭に手を置き、大丈夫よと頷く。
「私は白神理恵。よろしくね。君の名前も教えてくれると嬉しいな」
「……永月……智也」
 相変わらずの聞き取りづらい程小さい声を白神は、少し感覚を鋭くして聞き取りそっかと小さく頷く。
「それじゃあ、智也君、お姉ちゃん達に何かして欲しいことはある?」
「寒い…………」
 まだまだ肉付きの薄いか細い腕で体を抱きしめる少年――智也はタオルケットに体を包みながらもまだ青白い顔をしたままだ。
「そっか、それじゃあ、お風呂に入って体を温めよっか?」
 ただ小さく頷く智也を白神は抱き上げると、智也は少し焦ったように声を上げる。
「龍君、それじゃあ、そっちはよろしくね」
「わかった」
 相変わらず厳しい表情のままの龍を一瞥して、白神はふっと微笑むと、そのまま風呂場の方へと智也を伴い去ってしまった。
「創」
「何〜?」
「手がかりが出た。調べられるか?」
「もちろん、僕を誰だと思っているの〜?」
 龍の鋭い視線を受けてもいつもの明るさで応える創の声音には、どこか真剣さと自信が溢れている。
「任せてよ〜、ばっちり調べてくるからさ」
 兎のように跳ね上がり創は部屋を飛び出していく。その様子に呆れながらも、龍は少しずつ動き出していることに若干の安心と不安を交差させるのだった。





 時計の針は10の数字を越えて夜の色も深まりを見せるが、雨の勢いは止むことがない。降り続く雨は酷く不安な気分にさせるようだ。
「あれ、あれれ。どうしてデータが出てこないんだろう……。おかしいな」
 創は苛立ちを隠せず、乱暴にマウスをクリックする。創自身が開発した超高性能人物捜索プログラムで何度も調べてみるが、永月智也という少年は出てこないのだ。裏社会の人間であっても容易にこのプログラムからは逃れることが出来ないはずだ。なのに名前が一切出てこないのだ。
「どうなっているんだろう……。本当に」
「大丈夫か、創」
 いつもと様子の違う創に気がついたのだろう。黒沢は少し怪訝そうな表情を浮かべながらも、創の隣までやってくる。
「うーん、永月智也って子供を捜しても出てこないんだよね〜」
「そうか。となるとあの子供がよっぽど秘匿な存在だったとしか考えられないな」
 黒沢は思案顔になると、ぽつりとそう洩らした。
「どういうこ……」
「きゃ!」
 くるりとイスを回転させ、黒沢と向き合った創の言葉を遮るようにいきなり甲高い悲鳴が遠くから響いてくる。
「白神か!」
 黒沢が部屋を飛び出すと同時に創も慌ててイスから立ち上がり、黒沢の後を追う。
 黒沢と創が駆けつけたときには、バスタオルを体に捲いただけの白神が少し当惑したように、目の前でバスタオルを掛けられたまま横たわっている智也を見つめている。
「大丈夫か、その傷」
「うん、大したことないよ」
 白い肌を切り刻み止めどなく流れ、バスタオルを赤く濡らす傷を指でなぞりながら、白神は少し苦い笑みを浮かべる。
「その傷、鋭利な刃物で切ったみたいだな」
 黒沢は白神の体に刻まれた傷を見回す。一つ一つは軽い切り傷と言った風体だが、ほっそりとした足や手をあちこち切り刻んでいるといった不思議な状況だ。
「何があったんだ」
 龍が鋭い視線を智也に向けつつ、白神に尋ねる。
「智也君をお風呂に入れていたら、急に苦しみだしたんだ。そしたら体の周りから凄い気配を感じて、気がついていたら、こんな風に傷だらけに……」
「この傷の形状。そして目には見えない気配。もしかすると風かも知れないな」
 今までほとんど口を開かなかった黒沢がおもむろに呟く。
「風の使役。考えられるのは恐らく……」
「そこまでにしていただけませんか?」
 聞き慣れない女性の声がして、その場にいた全員が声のした方向を振り返る。
「あなたは……」
「龍君、この人って……」
 血の滲む傷口に手をかざし、治癒を行っている白神が、目の前に立っている女性を一瞥する。
「目が覚めて良かったです。気分はどうですか?」
「…………貴方達、どなたですか。万さんは……」
 少し女性は怪訝な表情を浮かべながら、龍達の顔を見回す。
「龍君、万さんってもしかしておじさんの事かな?」
 白神の言葉に龍ははっとなり目を見開く。
「もしかして万さんって万正のおじさん――よろず屋の前の店主のおじさんのことでは?」
「貴方達は……」
 龍のよろず屋の店主という言葉に女性が反応する。それは安堵と戸惑いに満ちたものだった。
「俺達はおじさんの店を、意志を引き継いで、この店をやっているんです」
「そうなのね……。万さんが選んだ貴方達なら万さんと同じように……」
 女性は少し目を伏せると、考え込んですぐに黙ってしまう。しかしすぐに顔を上げて覚悟を決めた表情で、龍達を見据える。
「貴方達に依頼したいことがあります……。この子を、智也を、救い出してあげてください」
 静かに女性はそれだけ言うと深々と頭を下げて、それがどこか悲壮な決意を伝えているようだった。





「詳しいことは今は言えません。私のことはどうでもいいから、この子だけは何が何でも守って欲しいんです」
 女性の言葉が龍の頭の中をぐるぐると駆け回っていく。その切迫した様子から何かに追われている、そんな感じがした。
 妙に目が冴えて眠れない。龍は黒竜の牙を手に取り、すらりとその漆黒の刃を抜き放つ。無造作に付けられた電灯の無機質な光を受けて黒い刃が湯気のように揺らめいた。
「どうしたの、龍君」
 電気が点いているのに気がついたのだろう。白神の顔がわずかに開けられた扉からこちらを見つめている。
 龍は黒竜の牙を鞘に収めると、起き上がり、扉を開けて入ってくる白神を一瞥する。
「妙に目が冴えて眠れない」
 苦い笑みを浮かべながら、龍は白神にイスに座るように促す。
「そっか……。私も実はそうなんだ」
 龍の言葉に少し恥ずかしそうに同調して、白神は窓の外に目を向ける。未だに止まない雨が不安を煽っているようにすら思う。
「それにしても、あの2人――どうなっているんだ?」
 先程深々と頭を下げて懇願してきた女性と目の前に倒れていた少年の姿を思い出しながら、龍は今まで頭に引っかかっていた疑問を口にする。
「雅さんと智也君だよね?」
「ああ。万正のおじさんと知り合いで、訳ありな何かを有している。これはかなり面倒なことになりそうだ……」
 白神の言葉に頷いて、龍は鋭い目をいつにも増して細める。
「どうしたの、いきなり、そんな怖い顔をして」
「…………、理恵」
 龍は黒竜の牙を手に立ち上がり、側にいる白神を見据えて、言い放つ。
「どうやら想像以上に厄介なことになっているらしい。全員を起こしてくれ」
「どういう…………。あ、まさか……」
 白神も目を細め、はっと窓の方も向く。押し殺してはいるが明らかに人の気配。それもこちらを窺うようなものだ。
「……わかった。そうするね」
 白神は頷くとその場をゆっくりと離れていく。龍は相手の出方を窺いつつ、黒竜の牙を握る力を強くする。
「龍君。創君と赤羽君と黒沢君は起こしたよ」
「ああ、ご苦労だ。加奈は、どうするべきかな?」
 すぐに戻ってきた白神にねぎらいの言葉をかけつつ、龍は思案顔になる。
「黒沢君が加奈ちゃんの周りに結界を貼ってくれているよ。だから後は麗さんに連絡しておけば……」
「……そうだな。わかった」
 龍は小さな鞄を手に取ると、そのまま白神を伴って部屋を出て行く。廊下に出るとそこには創達3人と寝ぼけ眼の智也、そして厳しい表情を浮かべた雅が佇んでいた。
「やはり、あまり時間は稼げませんでしたか……」
 雅は苦しそうな表情を浮かべて、ぽつりと呟く。そんな雅の様子をじっと見つめていた黒沢がグローブを両手に装備し、赤羽を手招きする。
「俺と赤羽が陽動を試みる。その隙を突いて龍は隠れ家へ行け」
 黒沢の言葉にそれが最善だと同意して龍は静かに首を縦に振る。赤羽が任せとけと明るい笑みを浮かべて、にっと歯をこぼす。
「頼むぞ」
「ああ、任せておけ」
「決めてやるって!」
 大きく頷く2人を一瞥して龍は車のキーを取り出し、歩き出した。





「全く、嫌な雨だぜ」
 赤羽は炎を体に纏いながら、冷たい雨を全身に受ける。
「そんなことはどうでもいい。俺達の役目はあくまでも陽動だ。それだけは忘れるなよ」
「へいへいっと」
 軽口を叩き合ってはいるが2人は既に臨戦態勢だ。赤羽の炎は雨を受けても消えることはなく、黒沢の両腕も少し魔力を帯びている。
「おい、こそこそ隠れていないで出てきたらどうだ」
 表情を変えないまま、素早く魔力の爪を生成し、弓のように飛ばしていく。エッジアロウは茂みを突き破り、その場から飛び出す黒い影をおびき出す。
「見つかってしまったか」
 マントにも似た黒装束に真っ白な仮面を身に纏った男女と思しき人影が、黒沢と赤羽を一瞥して距離を取る。
「何者だ、テメーら!」
 炎を迸らせ唸る赤羽に男の方が、すらりと刀を抜く。
「応える義理はない。……それにあの者達を庇っているのであれば、任務の支障だ。死んで貰う」
 男が呟くと同時に女と思しき影も刀を抜き、赤羽に迫ってくる。
「ち、面倒だな」
 黒沢は舌打ちをしながら、男の刃を右腕で受け止める。そのまま刀ごと男を地面に叩き付けるが、男はそれをするりと糸のようにかわし、迫ってくる。
「やるな、貴様」
 男の雨よりも激しい拳打を的確に弾く黒沢に、男はにやりと仮面の奥で笑っていた。
「仮面をかぶったこそこそした野郎に褒められても何も嬉しくはない」
 拳打の雨が少し弱まったと同時に防戦一方だった黒沢が反撃に出る。目にも留まらぬ早さで、男の仮面に拳を突きつける。小枝のように吹き飛ばされた男の顔から仮面が剥がれ、額から血を流した男の顔が現れる。
「やるじゃないか。面白い、名乗れ」
「偉く傲岸不遜な奴だ。名乗るなら自分から名乗りな」
 いくらスピード重視とは言え黒沢の拳打を喰らってそれでもなおダメージを受けていない。
「いいだろう、俺の名は朧だ」
「黒沢大吾」
 男――朧の名乗りとは対照的に、酷く醒めた声で黒沢は構えを取ったままだ。
「霞、そっちはどうだ」
 黒沢と対峙しながら、朧は赤羽の炎を全てかわしていく女に声をかける。
「中々の強さだ。風雅と同じで異端能力者だ」
 赤羽と距離を置き、朧の隣に降り立った女――霞はくくっと少し低い声で笑った。
「――なるほど、このままでは埒が明かないか」
 朧は赤羽と黒沢に一瞥をくれ、目を細めると、ぱちんと指を鳴らした。
「お前達は中々やる。だからこそ我々『帝の剣』の本気を見せてやろう」
 背後からもう二つの人影が現れ、黒沢と赤羽に刃を振りかざしてくる。
「ぐっ。まだいたのか」
「めんどくせーな、おい」
 炎の防御陣を引き、赤羽と黒沢は新たに現れた2人の攻撃と朧と霞の追撃を受けて、かろうじて耐えている。
「流石に、数の原理には及ばないか」
 珍しく焦りの表情を見せる黒沢に、威勢こそ良いがかなり息が上がってきている赤羽。やられるのも時間の問題だ。
「守護の左腕」
 攻撃の激しさに黒沢は左腕からも守りの魔力を解放する。かなり追い詰められている状況を一分でも持ちこたえるためだ。
「おいおいおいおい、これ以上はきついぜ……」
「ぐっ、俺もかなりきついな」
 嵐以上の猛攻に二人の体は傷だらけで、衣服もボロボロの状態だ。
「そこまでよ」
 不意に凜として響き渡る声。突如、突風が吹き抜け、とどめの一撃をくれようとしていた朧達の動きをとどめる。
「風雅か。探したぞ」
「あんた、どうして……」
 赤羽と黒沢に背を向けて、朧達と対峙する女性。それは龍と共に逃げたと思われた智也の母――雅だった。





 黒沢と赤羽が朧と霞と戦いはじめた頃、龍は車庫から車を出していた。智也を後部座席に乗せ、龍はキーを差し込み、エンジンをかける。
 白神と創が車に乗り込んでも、雅は一向に乗り込もうともしない。
「雅さん、どうして乗らないんですか?」
 雅の様子に見かねた白神は窓を開き、体を乗り出し訊ねる。だが、雅は何も言わず首を横に振るだけだ。
「智也のことを頼みます」
 雅は頭を深々と下げるとそれだけ小さく呟く。強い風が吹き、雅の姿はその場から消えてしまう。
「まさか……、赤羽君達のところに」
「待て、理恵」
 飛び出そうとする白神を制止する声が響く。龍が白神の腕を掴み、ただ黙って首を横に振っている。
「俺達は依頼を、あの人の願いを叶えないといけない。だから行くぞ」
「でも…………」
 龍の射貫くような視線から目を逸らしながら、不服そうな表情を浮かべる白神だったが、やがて諦めたのか渋々ながら首を縦に振る。龍はそれで良いと小さく頷くとエンジンのキーをかけ直し、アクセルを踏む。
 ゆっくりと車庫を出た車を容赦なく再び激しさを増した雨が叩き付けてくる。車内に流れ出したラジオのどこか途切れ途切れの無機質な音と叩き付ける雨の音が静寂とは呼べない静寂を醸し出している。
 エンジン音が遠ざかっていく。雨の向こうへと智也を乗せたワゴン車も消えていく。薄闇にぼんやりと浮かぶ排気ガスの白い煙が、地面になくなってしまうと同時に、雅はそっと目を伏せ、身を翻し、派手な音共に散っていく炎の花火のする方向へと歩き出していった。

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